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コンゴの近現代史(4)- 「アフリカ大戦」地獄のコンゴ戦争

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 アフリカ中を巻き込んだ第一次・第二次コンゴ戦争

コンゴの近現代史のまとめの最後になります。

国内の安定を最優先に掲げた軍人モブツは、反対勢力や政敵を徹底的に弾圧。行政・立法・司法組織を党の一部門にし、また国民全員を党のメンバーとして自らをトップに据える独裁体制を構築しました。

 一方で国外に逃れた反体制勢力は、近隣諸国の政府などと結びつき、戦いの構図が芋づる式に拡大。アフリカ諸国を巻き込んでいくことになります。

 1996年に発生したコンゴ戦争は、560万人以上の死者を出した、最悪の戦争となりました。

 

14. 民主化の動きと隣国ルワンダの政変

経済改革と民主化

ザイール化政策の失政、国際的な銅の価格の下落、そしてシャバ戦争による混乱もあってザイール経済は低迷を続けます。

1983年以降、IMFの勧告による経済再建計画を実施し、また五か年計画に基づく経済改革によってテコ入れを図り、外資の導入にも本格的に着手しました。

一方で、1989年から東側諸国の独裁体制が相次いで崩壊していき、国内外からザイールの独裁体制に対する批判が相次ぐようになります。

そこでモブツは1990年4月に一党制の終了と複数政党制の導入を宣言。11月に憲法が修正され翌年2月には66もの新政党が登録されました。

一方でモブツは憲法で定められた大統領職の三選禁止を無視し、「民主化は受け入れるが、かつてのような部族的派閥主義へ逆行することのないよう」に大統領職を継続することを宣言したのでした。

 

隣国ルワンダの情勢

同時期に、ザイールの隣国のルワンダで部族同士の反目が背景にあるルワンダ紛争が勃発していました。ルワンダの2大部族フツ系とツチ系の対立です。

当時のルワンダ政府はフツ系で、モブツのザイールと良好な関係にありました。

一方で、フツ系が主導する政府に弾圧されたツチ系の一部は隣国のウガンダに逃れて難民化しました。

この時に、ザイールにも多数のツチ系が逃れてきており、当時のザイールはツチ系を「バニャムレンゲ(バニャルワンダ)」として国内で居住することを許可しています。

ウガンダに逃れたツチ系は、ウガンダ政府の支援を受けて武装組織「ルワンダ愛国戦線 」を結成。そしてツチ系のルワンダ帰還とフツ系政府の打倒を掲げ、ルワンダ愛国戦線の軍が1990年10月にルワンダに侵攻しました。ザイールのバニャムレンゲもルワンダ愛国戦線との連携を図り、フツ系の戦闘がザイール東部や国境地帯で多発するようになります。

 

ルワンダ内戦はルワンダ愛国戦線が、フツ系の政府を打倒し終結

しかし、内戦が終結した後の1994年、政権を追われたフツ系の旧政府関係者、旧ルワンダ軍が母体の過激派組織インテラハムウェ、さらにはツチ系を憎むフツ系住民が、ツチ系の根絶を目指して大虐殺を始めました。世に名高い、「ルワンダ虐殺」です。この時の虐殺は100日間続き、80万人~100万人ともいわれるツチ系が虐殺されました。

そしてツチ系政府や軍、住民の報復を恐れたフツ系は、相次いでルワンダを脱出しザイールに逃れ始めました。この難民の中にはフツ系の過激派組織インテラハムウェも含まれており、以前からザイールに住んでいたツチ系住民を敵視し殺すなど乱暴狼藉を働き始めます。

さらにはツチ系のルワンダ政府の打倒を掲げる目指す勢力まで現れたため、発足したばかりのルワンダ新政府にとっては叩き潰しておかねばならぬ相手でした。ルワンダ政府はザイールに住む同族のパニャムレンゲへの軍事支援と武装組織化を行い始めました。

 

 

15. 第一次コンゴ戦争勃発 

パニャムレンゲの反乱

1996年8月31日、ザイール東部にてザイール軍とルワンダのツチ族との散発的な戦闘が発生すると、ルワンダ軍が組織したパニャムレンゲが一斉蜂起を開始。

このツチ系の反乱は当初はフツ族過激派に対する戦闘でしたが、パニャムレンゲの蜂起がザイール国内外の様々な反体制派の一斉蜂起を促すことになってしまいます。

 

反モブツの勢力は、ウガンダに拠点を持つ反体制派で盗賊の首領ローラン・カビラをトップに据え、「コンゴ・ザイール解放民主連合(AFDL)」を結成しました。AFDLはウガンダ、ブルンジ、ルワンダの支援を受け、特にルワンダ副大統領兼国防相のポール・カガメはモブツ政権打倒のために主体的な役割を担いました。

もはや単なる部族間の抗争ではなく、国家間の戦争の様相を呈しました。

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アンゴラの参戦、モブツ政権崩壊

 開戦後しばらくは、東部とルワンダ国境付近でAFDLが占領地帯を設けて一進一退の攻防を続けていました。この時占領地帯では、ルワンダ軍とAFDLによるフツ系への虐殺事件も多発していました。この時、20万人のフツ系住民が虐殺されたと言われています。

 1997年、突如としてアンゴラ軍がザイールに侵入。アンゴラはモブツ政権と連携している反政府右派勢力・アンゴラ全面独立民族同盟がザイールでAFDLと戦っていることを名目に、AFDLやウガンダ、ルワンダ、ブルンジと連携してモブツ政権打倒の兵を興しました。これによって均衡は破れ、ザイール軍は首都キンシャサに向かって雪崩を打って逃げていきました。

1997年5月にはAFDLと連合軍はキンシャサを包囲。もはやこれまでとモブツはモロッコに亡命。キンシャサに入場したローラン・カビラは、自らの大統領就任と「コンゴ民主共和国」の設立を宣言しました。

亡命したモブツは、疲労がたたってか、6月に死亡しました。

 こうして第一次コンゴ戦争は、フツ系パニャムレンゲが主体のAFDLが近隣諸国の支援を受けて勝利し、ザイール共和国を打ち倒すことに成功したのでした。

 

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16. 第二次コンゴ戦争勃発

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ツチ系を裏切るカビラ

大統領に就任したローラン・カビラは「終身大統領」を宣言。

自らが理想とする資本主義と社会主義の融合の政策を実行していこうとしますが、発足当時のカビラ政権は、彼を大統領に押し上げたルワンダとウガンダの影響が非常に強いものでした。カビラはコンゴ人でしたが、一般のコンゴ人は「まるで外国に占領されたようだ」と反発を強めることになります。

 カビラは政権と国内の安定のために「脱ルワンダ・脱ウガンダ」を図り、コンゴ人による政権を目指すようになります。

1998年7月、カビラはルワンダ人の首相ジェームズ・カバレベを解任し、後任にコンゴ人であるセレスティン・キフワと置き換える人事を発表。さらに2週間後、カビラは「ルワンダ軍とウガンダ軍のコンゴからの即時撤退」を要求しました。

 

ルワンダ、ウガンダ、反カビラの軍を組織する

AFDLのパトロンであるルワンダ軍とウガンダ軍の撤退は、それまで武力でフツ系を押さえ込んでいたツチ系の身が危険になることを意味したため、パニャムレンゲは危機感を強めました。ルワンダ政府は、同族ツチ族が虐殺される可能性が高まったため再度コンゴ東部に介入し、パニャムレンゲの武装勢力を糾合してコンゴ民主連合(RCD)を結成させました。

ウガンダ政府は、コンゴ人の反政府勢力、コンゴ解放運動(MLC)、コンゴ民主連合解放運動(RCD-ML)、コンゴ愛国同盟(UPC)といった勢力に武力支援を行いました。

1998年8月、緊張が続いていたコンゴ民主連合とコンゴ軍との間で全面的な戦闘が全面的な開始されました。第二次コンゴ戦争の勃発です。 

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コンゴ民主連合を中心とする反体制派は東部から首都キンシャサを目指して進軍を進めますが、一方でコンゴ軍も東部地域で攻勢を強め、またインテラハムウェを始めとしたフツ系勢力の武装勢力も根強く、全土で戦闘が起こりました。

首都キンシャサに反政府軍連合が迫り、カビラは危機に陥りますが、カビラはチャド、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラ、スーダンといったアフリカ諸国の支援を取り付けます。

 こうして、コンゴを舞台としたアフリカ諸国の大戦の様相を呈してきます。

 

親カビラ諸国連合軍の反撃

 1998年9月、ジンバブエ軍が首都キンシャサに到着し防御態勢を整え、アンゴラ軍は首都に迫った反乱軍と散発的な戦闘を行いました。

首都近辺から反乱軍が追い出されると戦線は膠着しますが、ウガンダとルワンダの軍が介入に乗り出すとアフリカ全土を巻き込む大戦に発展する恐れもあり、緊張状態が続きます。

1999年1月、南アフリカのマンデラ大統領の仲介で停戦合意がなされ、ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエは撤兵に合意します。

しかしこのサミットではコンゴ民主連合やカビラといったコンゴの当事者たちは招かれなかったため、アフリカ大戦という最悪の事態は免れますが、コンゴ内では相変わらず戦闘が続くことになりました。

 

カビラ暗殺

その後、国連平和維持軍の派遣による紛争の終結を目指し、1999年7月にコンゴ、ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエが「ルサカ協定」に調印しました。

しかしこの協定にもほとんどの反体制勢力が含まれておらず、国連安全保障理事会が24時間以内の即時停戦を訴えるも散発的な戦闘は全土で起こっていました。

加えて8月上旬、ウガンダ軍・ルワンダ軍のキサンガニ侵入にコンゴ政府は反発し、両国軍に反撃を開始。ルワンダ軍は首都キンシャサに迫り、コンゴ軍への反撃を開始。協定は完全に反故にされ、戦闘が継続されました。

そんな中、2001年1月16日に首都キンシャサでカビラが大統領宮殿内の警備兵によって暗殺されてしまいます。

コンゴ政府の権力の不在により、再び近隣諸国や反体制派による介入が起こることを恐れたコンゴ議会は、国際社会からの後押しもあって、29歳のカビラの息子ジョゼフ・カビラを大統領に選出しました。

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停戦合意

南アフリカのムベギ大統領の仲介で、2002年4月に南アフリカのサンシティで各勢力による協議がなされますが決裂。

7月30日、再度南アフリカのプレトリア市で平和条約が調印され、ルワンダとコンゴ間の問題の締結がなされ、コンゴからのルワンダ兵の撤兵とフツ族過激派インテラハムウェの軍備の大幅解除などが盛り込まれました。

9月6日、ウガンダとコンゴの平和条約が締結され、ウガンダ軍のコンゴからの軍撤退が締結されました。
そして2002年12月17日、コンゴ民主連合(RCD)、コンゴ解放運動(MLC)、コンゴ民主連合解放運動(RCD-ML)の主要反体制派によって「プレトリア包括合意」が締結され、これによって正式に第二次コンゴ戦争は終結しました。

復讐が復讐を呼び、270万~540万もの命が失われた、人類史の中でも最悪の部類に入る戦争です。

 

 

17. 天然資源をめぐる戦争

なぜコンゴ戦争は周辺各国をも巻き込んだ大規模なものになり、停戦合意が守られなかったのでしょう。

もちろん民族問題は大きかったのですが、それにも増して各勢力が血眼になったのが「コンゴの豊かな天然資源の確保」です。

コンゴは金、ダイヤモンド、すず、銅、各種レアメタルが豊かで、レオポルド2世やベルギーがコンゴを手放すつもりがなかったように、コンゴを抑えることは富にダイレクトにアクセスすることになります。

 

目の前に豊かな資源があるのに、自分たちが採ることは禁じられコンゴ政府にばかり持っていかれる。しかもほとんど分け前はもらえず、腐敗した中央政府の役人が全て吸い取って贅沢な暮らしを謳歌している。ふざけるな、政府をぶったおして全部俺たちが奪い取ってやる!

 

そう思っても不思議はありません。しかもここに民族問題が絡んでくるのでもっと厄介です。

ルワンダ、ウガンダといった国が特にコンゴ東部に深く介入したのも、同族の支援ということもありますが、豊かな天然資源による富の獲得が主眼にありました。

第二次コンゴ戦争でチャド、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラ、スーダンといった国々が参戦したのも、カビラ政権との間で天然資源の利権融通の約束があったためです。

武装勢力がこれだけ長い間ドンパチやってこれたのも天然資源による富があったからで、あれだけ広いコンゴの土地に広く軍を展開できるのも、カネの力で兵器や傭兵を世界中から買いあさったからです。

また大規模な兵同士の戦争は少なく戦線や領域は安定しており、戦闘の大半が空港、港、要塞、鉱業施設といった施設の奪取と防衛に当たられました。

そのため、戦闘を主導したのは組織だった軍ではなく、統制のない民兵が主体で、彼らによって大規模な強姦、拷問、民族浄化などの暴力が発生しました。

末端の統制が取れてないため停戦の試みは非常に難しく、トップが和平合意しても末端の兵士が平気でまた銃をぶっ放してしまいぶち壊しになることが相次ぎました。

2002年の和平合意以降も、ウガンダ、ルワンダ、南スーダンなど近隣各国との戦闘は頻繁に起こり、反政府勢力の帰国は遅々として進まず、また長く続いた内戦で広く普及した銃器は、極度の治安の悪さと暴力の連鎖を引き起こし、2014年以降で700名以上の民間人が殺害されています。

 

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まとめ

かなり長くなってしまいましたが、全4回でコンゴの歴史をまとめました。長い歴史の中で、ほぼずっと悲劇に見舞われている国もなかなか珍しいのではないでしょうか。

古くはポルトガル商人による奴隷貿易から始まり、悪夢のコンゴ自由国、そしてベルギーによる植民地支配。

そしてまったく準備不足の独立によって起こったコンゴ動乱、シャバ紛争、そしてコンゴ戦争。いずれも民族問題、そして天然資源をめぐる富の奪い合いが根本にあります。

コンゴは現在は世界の最貧国のひとつで、天然資源は豊かにもかかわらず、資源は武器に代わり、ほとんど他に全然周っていないのが実情です。

治安回復のための民兵の武装解除、教育の普及、インフラの回復、役人の汚職の撲滅、法整備、近隣諸国との外交問題の解決…。

まだまだ課題は山積みです。

 

 

参考文献

 アフリカ現代史(3)中部アフリカ(世界現代史15)小田英郎 山川出版社

アフリカ現代史 (3) 中部アフリカ (世界現代史15)

アフリカ現代史 (3) 中部アフリカ (世界現代史15)

 

 

参考サイト

Segunda Guerra del Congo - Wikipedia, la enciclopedia libre

Globalsecurity.org site on Congo Civil War

 

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