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コンゴの近現代史(3)- コンゴ流文化大革命・モブツのザイール化政策

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モブツが進めるザイール化政策の末路

コンゴの近代史のまとめの第3回です。

ベルギーから独立したコンゴは、中央政府の主導権争いと部族間抗争が内戦に発展。

東部が分裂しカタンガ共和国を名乗るなど、国家分裂の危機を迎えました。

国連を始めとした国際社会の介入でなんとか内戦は終結しますが、相変わらず不安定な状態が続きます。前回の記事はこちらをご覧ください。

今回は、再度の国家分裂の危機を迎えたコンゴを救うべくクーデターを起こした軍人モブツが、独裁者となって独自の改革を進めていく様を見ていきます。

再度の分列の危機は、抗争に敗れたルムンバ派残党がゲリラとなって革命を目指した「シンバの反乱」が引き金となります。

10. シンバの反乱

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「呪術的」左派ゲリラ勢力

1963年1月にチョンベのカタンガ分離の目論見が失敗に終わったことで、コンゴ動乱は終結し再びコンゴは統一されましたが、内乱によってインフラは破壊されつくし、経済はどん底状態でした。

そんな中、ルムンバ派残党が中心となって貧困農民を糾合し、ソ連や中国の支援も取り付けた上で左派ゲリラ活動が展開されました。

彼らの目的は「コンゴを再び独立させること」で、北東部を中心にスタンレーヴィル、キンドゥ、アルベールヴィルなどの主要都市を「解放」していきました。

左派ゲリラ兵士たちは自分たちのことを「シンバ(ライオン)」と呼び、シンバの兵士たちは入会に際し儀式を受けました。それは胸部と前額部に切り込みを入れ、「ルムンバの水」と呼ばれる魔法の水をかけると無敵になり銃弾も跳ね返す、というもの。

とうとう9月中旬には反政府勢力の頭領クリストファー・グベニエによって「人民革命政府」の樹立が宣言されました。

 

チョンベの中央政界復帰

再度の分裂の危機を迎え、アドウラ政権はより中央集権的な憲法を定めたり、国名を「コンゴ民主共和国」に改めるなどの改革を進めますが、中央政府内部の対立も高まっていきました。

そこでアドウラはスペインに亡命していたチョンベに帰国を要請。

コンゴ動乱でカタンガ分離を企んでコンゴ政府に弓を引いた張本人が、なんとコンゴ政府のトップに就任することになってしまいました。

復帰したチョンベは左派ゲリラ勢力(ルムンバ派残党)を除く勢力と挙国一致内閣を組閣し、コンゴ軍の立て直しや反転攻勢の陣頭指揮を執りました。

加えて、アメリカ軍とベルギー軍がグベニエが占領するスタンレーヴィルに捕えられたヨーロッパ民間人解放のために軍を派遣すると、チョンベも同じタイミングでスタンレーヴィルへの侵攻を開始。とうとうシンバ反政府勢力を鎮圧することに成功しました。

 

 

  11. 独裁者モブツの登場

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モブツ、再びクーデターを起こす

左派ゲリラ勢力の鎮圧後、中央政府ではやはりと言うか、首相チョンベと大統領カサブヴの仲が険悪化します。カサブヴは、チョンベの復帰は国内再統一までのあくまで暫定的な措置という考えでしたが、チョンベは政権の長期化を目指し始めます。

そんなチョンベを疎ましく思うカサブヴは、10月中旬にとうとう大統領権限でチョンベを罷免。しかしチョンベがトップのコンゴ国民会議派が主流の議会は動かず、議会はレームダック状態に陥りました。

1965年11月25日、軍部がクーデターを起こし政権を掌握。カサブヴは大統領から退けられ、代わりに最高司令官モブツが大統領に就任しました。

モブツは憲法を停止し、国会も事実上解散。大統領選挙の延期や5年間の政党政治の停止などを宣言し、安定するまで軍部が国をコントローするとしました。

確かに、これ以上の中央政府の混乱は再びコンゴ動乱の悪夢を繰り返す可能性があり、まずは政府を安定させることが一番大事ということは理解できます。

しかし、モブツは当初宣言していた共和制への復帰をいつまでも認めず、自らを絶対とした独裁化を進めていくことになります。

 

モブツ独裁体制の確立

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モブツはまず自らへの権力の集中を進めます。

立法権を議会から大統領に移管し、議会は大統領の出した法案をただ承認するだけの機関とされました。ライバルの粛清も進めます。アバコ党のカサブヴは自宅軟禁され、チョンベは再び国外に追放。その他の有力な閣僚経験者は処刑され、長年自らの右腕であったムランバすら解任してしまいました。その後は首相職を廃し、大統領の行政上の権限を強化し、さらに権力集中を進めました。

 

チョンベは大衆を組織化するため、革命人民運動(MPR)を成立させました。

各州の労働組合・婦人団体・青年団体を束ねて州知事・市町村長に支部長として管轄させ、総裁としてモブツが君臨するという体制になっており、コンゴ国民全員がMPRの指導下に入るという、巨大な体制翼賛組織でした。

これに抵抗する学生団体や左派グループは強権的に弾圧され、容赦なく投獄されました。

こうしてすべての権限を手に入れたモブツは、1967年6月に新憲法を制定し、国民投票で98%の圧倒的賛成で承認を得ました。

次いで1970年11月に大統領選挙に唯一1人だけ立候補し、当選。

そして議会選挙はMPRが作成した420名の名簿リストを国民投票にかけ、98%の賛成でこれまた可決されました。

続いて行われた憲法の修正にて、MPRは政党から国家機関に格上げされ、議会も裁判所もすべてがMPRの一機関になり、また国民も全員MPRのメンバーということが法律で定められました。

SF小説でも読んでいるかのようですね・・・。

 

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12. コンゴ流文化大革命「ザイール化政策」

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ヨーロッパ的なものを廃し、ザイール的なものに復帰する

モブツは自ら提唱した「真正(オータンテイシテ)」という概念を具体化するために「ザイール化政策」を進めました。

これは政治・経済・文化・社会のあらゆる事柄に存在する「ヨーロッパ的」な事物を捨て去り、先祖伝来の「ザイール的なもの」に復帰しようという、中国の文化大革命の逆バージョンのようなものです。

 

国名はコンゴから「ザイール」に変更され、町の名前もレオポルドヴィルは「キンシャサ」に、エリザベートヴィルは「ルブンバシ」に、スタンレーヴィルは「キサンガニ」に変更されました。また自らの名前もジョゼフ・モブツから「モブツ・セセ・セコ」と改め、ザイール的な名前への変更を全国民に義務付けました。

 

国民の服装は、ジーパンやシャツのような洋風の服装は禁じられ、男性は「革命服」、女性は「伝統的な服」を着るように命じられました。

 

▽モブツのポートレートが印刷されたシャツ

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 Credit: Collectie Stichting Nationaal Museum van Wereldculturen

 

外国依存から脱した「経済のザイール化」の名の元、外資企業が次々と国営化され、中小企業もすべてザイール人への売却を命じられました。さらにマネージャーや経営者などの知的労働者もザイール人に置き換えられるように指導がなされました。

その結果、技術的に未熟なザイール人が経営や管理といった重要な意思決定を行うことになり、外貨収入が激減する一方で対外債務は急激に増加。1976年から1983年の7年間で債務が5倍以上に膨れ上がりました。

経済的な危機を迎え、モブツは経済の急激なザイール化を諦め、投資法を改正し外資導入を図らざるを得なくなったのでした。

 

反モブツ包囲網の構築

モブツ体制はザイール国内では強固なものがありましたが、国外では亡命コンゴ人を主体に反モブツ政治団体・武装組織が、周辺各国の支援もあって多数生まれていました。

ベルギーに拠点を持つ民族主義団体・コンゴ復興行動運動(MARC)、フランスに拠点を持つ左派団体・アフリカ社会主義戦線(FSA)、スイスに拠点を持つコンゴ=キンシャサ解放民主勢力などなど。

中でも最大の反モブツ武装勢力が、シャバ紛争を引き起こすことになるコンゴ解放民族戦線(FNLC)です。

 

 

13. シャバ紛争の勃発

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第一次シャバ戦争

コンゴ解放民族戦線は、コンゴ動乱を戦ったカタンガ兵の残党のうち隣国アンゴラに逃れた連中で、アンゴラの宗主国ポルトガルの支援を受けていました。アンゴラ独立後、FNLCはアンゴラの左派武装勢力・アンゴラ解放人民運動(MPLA)と連携しました。

モブツは民族主義勢力のアンゴラ民族解放戦線(FNLA)とアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を支援しており、FNLCはMPLAと連携しアンゴラ革命を進め、1975年にはアンゴラ人民共和国が成立することになります。

 

アンゴラ人民政府のネト政権の支援を受けたコンゴ解放民族戦線は、反モブツの戦いに本格的に乗り出し、1977年3月、ザイールのシャバ州(旧カタンガ)へと侵攻を開始。1,500〜2,000の部隊でアンゴラ国境の町ディロロを落とす、キセンゲ・カジ、サンドア・カパンガと「アンゴラ〜ザイール」間を結ぶ鉄道沿いに添って町を落としていきました。

コンゴ解放民族戦線が目指すのはシャバ州南部の鉱業都市ルブンバシ(旧エリザベートヴィル)で、ザイール経済の中枢都市を占領することによってモブツ政権を崩壊せしめようという作戦でした。一方のザイール軍は防衛体制が全く整っておらず、シャバ州全体の防衛にわずか3,000〜4,000名しか配備しておらず、次々とコンゴ解放民族戦線軍に打ち破られていきます。

モブツは西側諸国に支援を求めました。

アメリカ、フランス、ベルギーなどの西側諸国は、アンゴラの共産化の二の舞いを避けるべしということで積極支援に乗り出します。4月にフランス空軍の支援を受けたモロッコ軍地上部隊1,500名がシャバ州に到着。ザイール軍と共にコンゴ解放民族戦線に攻撃を加え、ムチャチャ、ディロロ、カバンガと主要都市を奪還。とうとうアンゴラ側に追い返すことに成功しました。

 

▽シャバ州に進駐するモロッコ軍

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第二次シャバ戦争

こうして第一次シャバ紛争は終結するのですが、その1年後の1978年5月に再びコンゴ解放民族戦線約4,000名がアンゴラからザンビアを経由して再びシャバ州に侵入。

モブツは直ちに国家総動員体制を組むとともに、アメリカ、フランス、ベルギー、モロッコ、中国などに軍事支援を要請しました。しかしこの時のコンゴ解放民族戦線は用意周到で、わずか2日後に鉱業都市コルウェジ・ムチャチャが占領されました。

コルウェジ・ムチャチャには鉱山で働くヨーロッパ人技術者が多数駐在しており、コンゴ解放民族戦線は彼らを人質にとって関係各国に妥協を迫りました。

西側諸国は協議し、フランス・ベルギーが降下部隊を出して人質の救出に当たり、アメリカ・イギリスは後方支援に当たることに決定。5月19日にフランス軍とベルギー軍の特殊部隊がコルウェジ・ムチャチャに侵入し、人質を救出。しかし既に200名もの人質が殺害されていたそうです。

重要な人質を奪われたことで、コンゴ解放民族戦線の兵はアンゴラ側に撤退

それを見てフランス軍、ベルギー軍も撤退し、再度の軍事衝突を防ぐためにモロッコ軍を主体とするアフリカ多国籍軍がシャバ州に駐屯し、監視任務に当たることになりました。

しばらくザイールとアンゴラの緊張関係は続きますが、コンゴ人民共和国の仲介で和解し、ネト大統領がザイールを訪問し緊張緩和がなされました。

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つなぎ

 モブツは多種多様な部族を統合するために強権的な独裁体制を築き上げ、国家統合の中心施策として「ザイール化」を進めようとしました。

ただし、経済も社会も文化も全てをザイール化しようというのはどだい無理な話で、かなりラディカルな方策だったため経済的には低迷することになってしまいました。

そして、国内を強権的に締め付けたため反体制勢力は国外に逃亡。これは結果的に、コンゴの国内の争いを、近隣諸国との争いにまで巻き込んで発展させてしまうことになります。

 1990年代に入り近隣諸国の紛争がコンゴに飛び火。悪夢の第一次・第二次コンゴ戦争が勃発することになります。

 

 

参考文献

 アフリカ現代史(3)中部アフリカ(世界現代史15)小田英郎 山川出版社

アフリカ現代史 (3) 中部アフリカ (世界現代史15)

アフリカ現代史 (3) 中部アフリカ (世界現代史15)

 

 

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