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コンゴの近現代史(2)- なぜコンゴ動乱が起こったのか

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 準備不足の独立によってもたらされたコンゴ動乱

コンゴの近代史の第2回です。

前回はコンゴ王国が奴隷貿易によって国力を落とした後にベルギー王レオポルド2世の私領「コンゴ自由国」となり、非道な収奪で多くの犠牲者が出たことをまとめました。

まだご覧になっていない方はこちらよりどうぞ。

ベルギー領となったコンゴではナショナリズムの高揚が始まるものの、ベルギーは暫くの間コンゴを手放す気はまったくありませんでした。しかし国際的な時流はアフリカの民族自決に傾いていき、その流れはコンゴにも押し寄せてきます。

6. 第二次世界大戦でのベルギー領コンゴ

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連合国内で重要な役割を果たすコンゴ

第二次世界大戦が始まると、本国ベルギーは早々にナチス・ドイツによって占領されてしまいました。しかし、ベルギー領コンゴは本国の降伏後も抵抗運動を続けていくことになります。

コンゴ植民地政府はコンゴ公安軍を強化し、エチオピアに侵攻したイタリア軍を攻撃。1941年5月にオーギュスト・ジリアールト率いる8,000の部隊がイタリア軍を退却させました。

またコンゴは連合国軍への資源供給に重要な役割を果たしました。オランダ領東インドやイギリス領マレーが日本に占領されたことによって、コンゴは連合国軍のゴムの重要な供給元となりました。また、核兵器を作る上で重要なウラニウムもコンゴで産出されたものでした。その他、木材、銅、綿花、パーム油、ダイヤモンドなど軍用の需要が急増。コンゴは急速に経済発展していきました。

 

戦後の経済発展・社会変化

戦後もコンゴは高い経済成長を続け、ベルギー本国の戦災復興にも大きな貢献を果たしました。ベルギー政府はさらなる成長を見込んで10億ドル以上の資金をコンゴに投資し、鉄道・道路・発電所といったインフラや、病院・学校・政府施設などを次々に建設していきました。

これに伴いコンゴの輸出総額は1953年には4億ドルを超え、国民総生産10億ドルにも達しました

経済成長に伴い急激な都市化が進み、多くのコンゴ人が地方から都市に移り住むようなり、学校が普及し高いレベルの教育を受ける人が増えたことで近代的な考えや思想を持つコンゴ人が増え、そのような人たちは1950年代から急速に広がる「アフリカの独立」の大きな潮流を敏感に感じ取るのでした。

 

「コンゴの独立はありえない」

アフリカ各地で植民地独立の機運が高まり、イギリスやフランスなどは近い将来の独立や自治の検討や準備を始めていましたが、ベルギーはコンゴを手放すつもりは毛頭なかったようです。

1955年にアントワーヌ・ヴァン=ビルセンという教授が、「30年後にコンゴは独立を果たすべきだ」とする論説を発表し、今の我々の感覚からすると30年なんて遅すぎですが、当時はこの論説ですら「理想主義に過ぎる」とすら言われました

 

ところが、コンゴ人の間では急速に独立への意識が高まっていきます。

アバコ党(バコンゴ族同盟)党首のジョセフ・カサヴブは、「30年など待てない」として、政治的権利、集会の自由、思想の自由、出版の自由を直ちに認めることを主張しました。

この頃からアバコ党のカサヴブはバコンゴ族の間で急速に支持を広げていきます。

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一方、1958年10月に創設されたコンゴ国民運動(MNC)の党首パトリス・ルムンバは、コンゴの早期の独立を訴えて急速に支持を広げていき、翌年には「単一国家コンゴ」独立運動のリーダー的存在になっていました。

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もう1つの動きとして、1958年にバルンダ族を中心とする東部諸部族連合がコナカ党を設立。党首モイーズ・チョンベは東部のカタンガ州諸部族の連合体を率い、コンゴを独立した連邦国家にすることを目指しました。

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 そのような動きに対し、ベルギー当局は主要都市の議会に一部選挙を取り入れるなどの妥協策を採りますが、基本的には独立は決して認めない立場でした。

 

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7. コンゴ独立、動乱の始まり

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ベルギー政府、コンゴ独立を承認

 1958年、近隣の中部アフリカ諸国が次々に独立を達成していき、大いに刺激されたコンゴ国民の中では独立の機運が大いに高まっていました。

 アバコ党のカサブヴはバコンゴ族の居住地域の独立を訴え、コナカ党のチョンベはカタンガ州の自治権のある形での独立を訴えました。

一方でコンゴ国民運動(MNC)のルムンバは、バラバラの部族を強力な中央集権体制で統合すべく、大衆運動の組織化に乗り出していきました。

 

1959年1月、アバコ党大会の開催を植民地政府が禁止したことに端を発した暴動がきっかけとなり、ベルギー政府はとうとう方針を転換しコンゴ独立の検討をスタート。

同月にアバコ党、コナカ党、MNCといったコンゴの党の代表を集めて会議を開き、なんとわずか5か月後に独立させることが決定されました

 

わずか5カ月の間に新生コンゴは独立後の国の形を決めなければならず、相当に無理があるスケジュール設定でした。

特に厄介な問題が民族問題で、主要な部族だけでも、バコンゴ族、バルンダ族、バルバ族、バモンゴ族などがいて、少数民族ともなれば数えきれないし、それぞれが独自に自分たちの主張をしていたので、わずか5カ月でまとまるわけがありません。

とはいえ、独立をすることになったので、1960年5月に総選挙が行われ、投票の結果ルムンバ率いるMNCが第一党となりました。しかし多数をとることができなかったので、アバコ党やコナカ党、他少数の党との連立政権が組まれることになります。

そして1960年6月30日、コンゴ共和国が発足することになりました。

 

暴動の連鎖、コンゴ動乱の勃発

 初代首相となったルムンバは、形式的には中央集権体制を敷くも、実質的に地方の権限を大幅に認めた体制を構築し、連立を組む他の部族の党と妥協を図りました。

そうした上で、国の統合のために強烈な民族主義・反ベルギーの態度を採りました。ベルギー政府はこうしたルムンバの対応に警戒感を抱くようになります。

国民の反ベルギー感情は根強く、コンゴ人兵士のベルギー人将校への反乱事件をきっかけに全国に暴動が拡大。ベルギー人と見るや略奪・暴行を加える事件が相次ぎました。

事態を重く見たベルギー政府は、ベルギー人の保護を理由として軍隊を出兵させ、カタンガ州の首都エリザベートヴィル、カサイ州の首都ルルアブールに軍隊を送り込み、ベルギー人を解放しました。

このようなベルギー軍の行動に対してコンゴ軍が反発。各地でコンゴ軍とベルギー軍の衝突が始まります。

そんな中、7月11日に突如としてコナカ党のチョンベがカタンガ州の独立とカタンガ共和国の独立を宣言してしまいました。

 

 

8. カタンガの分離独立闘争

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 カタンガ州は天然資源が豊富な地域でコンゴの国民総生産への貢献も高く、チョンベはカタンガ州の豊富な収入を自分たちで独占することを目論みました

そんなカタンガを、ベルギーを始めとしたヨーロッパ諸国は密かに支援していました。反ベルギーの姿勢を貫くルムンバへの対決姿勢を強めたというのもありますが、カタンガ州に自分たちの資本が入った鉱山が多数あったため、利権絡みでチョンベを支持したわけです。

 

ルムンバとカサブヴはベルギー軍へ軍の撤兵を要求しますが、ベルギーは「法と秩序が回復されない限り撤兵できない」としてさらなる軍事介入を続けました。

コンゴ政府は国連軍に介入を要請。マリ、スーダン、アイルランドからなる国連軍がコンゴに進駐し、ようやくベルギー軍は9月初旬に撤兵しました。

 

しかし、相変わらずカタンガは独立をした状態が続き、加えて8月にはジルバ族の住むカサイ州南部が「南カサイ鉱山国」として独立を宣言

これ以上の分離は断固として認めないという姿勢を見せるため、首相ルムンバは国連事務総長ダグ・ハマーショルドに国連軍のカタンガ攻撃を要請。そしてコンゴ軍のカタンガ攻撃の検討を開始しました。

これを危険視した大統領カサブヴはルムンバを解任し、後継にジョセフ・イレオを任命する発表を行いました。一方でルムンバもカサブヴを解任する声明を発表

コンゴ政府内での決定的な対立が生じ、中央政府が混乱状態に陥っていきます。

 

 

9. カタンガ共和国の崩壊

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コンゴ共和国内の混乱

 9月14日、陸軍参謀長ジョゼフ・モブツはクーデターを行い議会を停止させ、軍主導の暫定委員会を発足させました。

カサヴブは暫定委員会に協力しますが、ルムンバは反発し次第に孤立していき、本拠地のスタンレーヴィルに逃亡しようとしたところを軍によって逮捕されました。

これに対し、ルムンバを支持する勢力はスタンレーヴィルで新政府の樹立を宣言。

ここにおいて、コンゴ共和国はレオポルドヴィルとスタンレーヴィルの2つの政府の対立状況が発生しました。

スタンレーヴィル政権は軍をカタンガ州北部に侵入させルアバラ州として独立宣言するなど混迷を極めていきました。

ここにおいて、レオポルドヴィル政権は捕えたルムンバをカタンガ州のチョンベの元に移す決定をします。

レオポルドヴィル政権とカタンガは対立していましたが、当面の混乱を抑えるにはまずはルムンバのスタンレーヴィル政権を屠ってから話し合いで解決しようという目論見でした。

 

国連の積極介入

ところが2月13日、カタンガ共和国は「ルムンバが殺害された」と発表

普通に考えたらチョンベの指示の元殺害されたと考えるのが筋ですが、公式発表ではカタンガからスタンレーヴィルへの脱走中に住民に殺害されたとされました。

この発表に国際世論はコンゴ政府、カタンガの両方に対して非難が集まり、各国政府のみならず民間レベルでも抗議デモが発生し、中にはスタンレーヴィル政権を承認する国までも現れ始めました。

コンゴ問題の国際的な懸念が高まる中、国連安保理事会においてコンゴ問題に関する決議を採択。コンゴの統一状態の回復、治安の回復、議会制の復活、軍隊の再編などが盛り込まれました。

カタンガに利権がある西側諸国も、カタンガの分離独立を潰さなければコンゴの混乱は収まらないと見たことに加え、放って置いたらカタンガがソ連の影響によって共産化してしまう、という恐れもあったのでした。

このような国連の動きに対し、レオポルドヴィル政権もカタンガ政権も「自らの問題はコンゴ自身で解決する」として外部の介入を拒否し、安保理決議の無効を宣言。

 

カサブヴは各党を集めて特別国会を開き、シリル・アドウラを首班とする挙国一致内閣を樹立させました。

アドウラは一刻も早いコンゴの統一の回復を訴え、国連もこれを支持しますが、カタンガのチョンベはこれを認めず、「全人民的抵抗」を訴え、カタンガ憲兵隊と国連軍の衝突も発生するまで事態は緊張しました。

介入しようとした国連事務総長ハマーショルドはカタンガ行の飛行機で謎の墜落事故で死亡し、ますます国際社会とカタンガの関係は冷え込んでいきます。

12月15日、とうとう国連軍はカタンガの首都エリザベートヴィルに侵攻しカタンガ憲兵隊を圧倒。チョンベはアドウラ政府に「カタンガの分離の放棄」を認めたキトナ協定を結びました。

チョンベはその後もあの手この手でカタンガの維持を目論みますが、国連総長ウ・タントはチョンベに重大な警告を発した上で、制裁措置を実施。国連軍は再度首都エリザベートヴィルを制圧し、チョンベはとうとうカタンガの全域を国連軍に委ね、カタンガの独立消滅を宣言。1963年1月18日に、正式にカタンガは消滅しました。

 

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つなぎ

政治家同士の反目、部族同士の対立、諸外国の利権、イデオロギー対立などなど、色々な事情が絡み合った複雑極まりない状況です。

チョンベもルムンバもカサブヴも、別に混乱状態を望んでいるわけではなく、何とか必死に和平をしようとしているのは分かるのですが、なにせ利害が麻のように絡まっており、一筋縄ではいかなかったに違いありません。下手を打つと、自分のみならず、一族郎党、部族もろとも抹殺される恐れがあるわけなので。

 さて次回は、クーデターによって混乱の収拾に当たった軍人モブツが、全権を掌握し独裁体制を築いていく様を見ていきます。

reki.hatenablog.com

 

参考文献

 アフリカ現代史(3)中部アフリカ(世界現代史15)小田英郎 山川出版社

アフリカ現代史 (3) 中部アフリカ (世界現代史15)

アフリカ現代史 (3) 中部アフリカ (世界現代史15)

 

 

参考サイト

Belgian Congo in World War II - Wikipedia

 

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