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「福祉国家スウェーデン」はどのように成立したか

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「理想的福祉国家」スウェーデン 

ちょっと前まではスウェーデンやデンマークなど北欧の国々の手厚い福祉政策が「理想的」と喧伝されていました。

今でも教育や人権、福祉、労働条件の問題を語る時に、北欧の国々の取り組みは引き合いに出されることは多いです。何というか北欧諸国は理想郷とお思いの方も多いに違いありません。

確かに北欧諸国の取り組みは先進的で、我々が学ぶべきことも数多くあるのですが、一朝一夕に実現するものではなく、長い歴史的努力を経てこのような社会システムが出来上がっているのです。

 今回はスウェーデンの福祉国家成立の経緯を見ていきたいと思います。

1. スウェーデン・モデルとは

スウェーデンの福祉国家のコンセプトは「高い経済成長」を維持し「雇用を確保」しながら「福祉を充実」させることにあります。

資本主義とも共産主義とも異なり、この両方の良い部分を統合したような仕組みで、市場の競争原理で国際市場で企業を戦わせ質を上げて売上を伸ばし、税収を確保した上で富を国民に平等に分配するというものです。

このスウェーデンの国家運営方式は通称「スウェーデン・モデル」と言われ、スウェーデン政治研究者のオーロフ・ルイン氏は、以下のように定義しています。

 

・非常に包括的な福祉システムが構築されていること

全国民が平等に、国の保証によって安心・安全を確保でき、それは国の税金によって支えられる。

年金の増額、児童手当の増額、有給休暇の増加、労働時間の削減、学校の無償化などなど。このような幅広い福祉施策は税金によって支えられており、あらゆる機会で高額の税金を払わなくてはいけない。

 

・労働市場が平和的、協調的であること

労働側も経営側も巨大な組織を持っており、賃金交渉は中央レベルで行われてきたため、労働市場では平和的で紛争が発生しない。また、社会保険を背景にして迅速な労働市場政策が採られたため、産業構造の変化にも柔軟に対応できた。労働者が失業しても手厚いサポートによって新しい産業の職場にスムーズに異動することができる。

労働者も経営者もお互いを理解し、依存しあい、効率化と質の改善に努力を続ける。

 

・合意形成を優先させる政治課題解決技法

政治家や利益団体は、何か新たな案の合意を得ようとする場合、徹底した調査と研究を重ね、長期的展望にたって何が益となるかの議論を行い、衝突することがあった場合も妥協点を探し、捨て去ることはせずに何らか実現させようとする。

可能な限り広範囲の合意形成を得ることは、不平等を徹底排除する福祉国家には必須の条件となる。

 

「すべての国民が安心・安全に平等な暮らしを行うため、互いに連帯しよりよい社会のために努力を続ける」という考えが一般的に普及しており、手法は時代によって色々変化をしていきながらも、この志向は第二次世界大戦直後から現在までほぼ変わっていません。

スウェーデンでもかつては「国に過度に依存して働かない者が大量に現れ、国の活性が奪われる」という批判は根強くあり、そのような批判との戦いを経て福祉国家を建設してきました。

 

 

2. なぜスウェーデンに福祉国家が定着したか

スウェーデンの福祉政策の歴史は古く、1763年に成立した「救貧令」にルーツがあります。その後、1848年に改定され、1871年に新救貧令、1918年に救貧法へと発展し、その後の広範囲な福祉関連法へ制度整備と続いていくことになります。

 そういう歴史的な事柄もありますが、スウェーデンに福祉国家が定着した大きな要因は以下と考えられます。

 

・社会福祉政策を重視する社民党が44年間もの長期政権を維持し、一貫した政策を継続したこと

・歴代の社民党のリーダーが極めて現実的な視点を持ち、また仕事が出来る人達だったこと

・大戦でも中立を保ち、平和を維持したこと

 

つまり、「福祉政策に関する国民的な合意形成を得た上で、限りあるお金を国民生活のためだけに使うという首尾一貫した政策が、賢明で現実的な政治家によって長年維持され改良が重ねられた」という点に尽きそうです。

 

 

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3. スウェーデン社民党の躍進

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1889年4月に成立したスウェーデン社民党を成長させ、またスウェーデン特有の合意形成優先の政治手法を確立した人物が、カール・ヤルマール・ブランディング。

社会主義者でもあったブランディングは、スウェーデンに理想的な社会主義国を建設するには暴力革命ではダメで、他党と連携し合意形成を進めた上で、緩やかに制度を改善し理想に近づけていくアプローチを取るべきと考えました。

1896年に初めての議席を確保してから、1914年には87議席を獲得するまでに成長し、1917年には自由・社民連立政権に参加するほど躍進。そして1920年には単独政権を樹立しました。

社会主義政権に対する国民の不安は根強いものがあったものの、ブランディングの現実路線が功を奏し、国民の広範な支持を得るに至りました。

当時の世界の共産主義と言えば、暴力革命で政権を奪取して反対派を大弾圧し、私有財産の没収や集団農場への強制移住など、現実を顧みない教条主義的なやり方が主流であったため、相当穏健なやり方です。

 

ハンソンの「国民の家」構想

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 ブランディング亡き後の社民党を率いたのは、ペール・アルビン・ハンソン。

ハンソンは後の福祉国家スウェーデンの概念でもある「国民の家」を打ち出しました。

彼は来るべきスウェーデンの未来像を「誰ひとりとして抑圧されることがない、人々が助け合って生き、階級闘争ではなく協調の精神がすべての人々に安心と安全を与える国」と定義し、国民の支持の元、長期に渡る社民党政権の定着化をもたらしました。

ハンソンの時代は世界恐慌が起こり、スウェーデン国内でも株価が大暴落し企業の倒産が相次ぎ、失業率が大幅に増加しました。

労働者は早急な社会主義で国家による救済を強く求めますが、ハンソンはその道は採らず、党外からの支持を獲得できる改造内閣を樹立し、「公共事業拡大、積極的な財政支出」により労働者の失業を抑えようと努力したのでした。

 

 

4. 福祉国家の建設へ向けて

社民党の舵取りによって世界恐慌を乗り切ったことで、それまで社会主義路線の政権を疑惑の目で見ていた経営者側も評価をせざるを得ませんでした。労働者側も社民党政権に協調すべく、1938年に労働組合全国組織が社民党と団体交渉主義と労使関係を規定するルール作りを行いました。ここにおいて、労組と国が平和的に賃金交渉を行い、代わりに労働市場の合意形成を衝突なく進めるという協力関係が成立しました。

 

中立主義を貫くスウェーデン

 第二次世界大戦ではスウェーデンは一貫して中立を貫きました。中立というと聞こえがよいですが、想像を絶する忍耐が必要だったのです。

隣国のデンマークやノルウェーがドイツに占領され、フィンランドがソ連に侵攻され、大勢の人が殺されているのが分かっていつつも、決してスウェーデンは動くことはありませんでした。自分さえ良ければ他の国の人命などどうでもよいのか!という世界各国からの非難に耐えなければなりませんでした。

中立を貫くため、ドイツ軍の領土内通過をも許可しました。世界中から軽蔑されようが、福祉国家建設のためには平和を維持することが何よりも重要だったのです。

事実、大戦後は戦前と同水準の工業力を維持するスウェーデンの工業製品への需要は拡大し、この戦後の好景気が高い経済成長と福祉の充実のために大きな役割を果たしたのです。

 

スウェーデンの中立主義についてはこちらの記事が詳しいです。

synodos.jp

 

5. 福祉国家の黄金時代

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国民年金改革

1946年にハンソンは急死し、後継のリーダーとしてターゲ・エランデルが選ばれました。 

エランデルは、前任者のブランディングとハンソンの路線を踏襲しつつ、戦後最大の論争となった国民年金制度の付加年金を成立させました。

1913年に導入された国民年金はインフレを考慮していないものだったので、高齢者になった時に受け取れる年金が低すぎる問題がありました。そのため1946年にインフレ対応型の年金制度に改良されたのですが、これに加えて現役世代の生活水準を高齢者になっても維持できるような年金の上乗せ制度を追加すべきという意見が多かったのです。

この付加年金制度論争は、連立を組む農民同盟を離反させ、社会主義ブロック(社民党、左党)vs ブルジョワブロック(中央党 [旧農民同盟]、国民党、穏健党)という政治体制を生み出すことになりました。

 

 黄金の60年代、苦悩の70年代

 1960年代は工業生産が年6.5%のペースで成長し、「黄金の60年代」と呼ばれる空前の好景気となりました。この好景気を背景に、社民党は社会福祉の制度を次々と拡大していくことになります。この頃には「福祉国家スウェーデン」は世界的にも有名になり、理想的な国家像として世界の羨望を集めることになりました。

しかし、1970年代になると経済成長が頭打ちになっていきます。

まずは西ドイツや日本など新興工業国の台頭で技術優位性がなくなり、スウェーデンの国際競争力が低下。さらに石油危機によってエネルギー価格が高騰したことで、収入が減ったのに支出が大きく増えるという事態になりました。

黄金の60年代によって国民の福祉への依存度は強く、手厚い福祉に依存し労働者は勤労意欲が低下し、企業側も革新意欲の低下が起こっていました。

 70年代に起きた行き詰まりから、エランデルは党首を辞任し、社民党は支持を失い一連の選挙に敗北。1976年にとうとう社民党は下野していまいます。

 

6. 社民党の復権、EU加入

1982年に社民党は再び政権に就きますが、1990年に不動産バブルが崩壊。経済危機に直面します。企業の倒産や失業率が増加する中で、首相カールソンは付加価値税の増税を決定。これが決定的になり、1991年の選挙では社民党は大敗。穏健党を中心とした中道右派政権が誕生しました。

しかし、穏健党もまた通貨危機を抑えられず、3年後の1994年に社民党は再度政権を奪還。同年にEU加入を決定し、バブル後の危機を乗り切ることに成功しました。これにより、伝統的な「中立・非同盟」という御旗は失くすことになりました。

2006年からに保守政党の穏健党に政権を奪還され、国有財産の売却や福祉予算の削減、規制緩和などの緊縮政策が採られたものの、伝統の「福祉国家」という理念は国民の中にしっかりと活きており、現在政権を握る社民党もEUという枠組みの中で理想国家を維持すべく、模索を続けています。

 

 

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まとめ

かなりざっくりとではありますが、スウェーデンの福祉国家成立までの流れがおおまかに分かるかと思います。

こんなに単純でなく、時には国論を二分するような危機も多くあったのですが、それでもスウェーデンの人々は福祉国家の実現に向けてたゆまぬ努力を続けてきました。その努力はまことに敬服すべきものです。

ですが、じゃあ日本がこれに倣うべきだ、というのもちょっと違うとも思います。政治状況や国際環境が違いすぎるので、大いに参考にはなるもののまったく同じものを取り入れるのは困難でしょう。

その代わり、日本が今すぐ取り入れるべきと思う事柄は、

「政治家により明確な国家ビジョンが掲げられ、国民合意形成の努力がなされ、合意後は官民一体となって目標実現に向けて前向きな努力をする」

というスウェーデン人の物事の進め方ではないかと思います。

 

 参考文献

岩波講座 世界歴史 26 経済成長と国際緊張 福祉国家の成立と展開 岡沢憲芙

 

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