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「ポーランド分割」- 共和国ポーランドが消滅するまで

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拡張する近隣諸国の中に溶解していくポーランド国家

 高校の世界史で必ず学ぶポーランド分割。

しかし、どういう背景があって、どのような経緯で分割されるに至ったかあまり詳しく知らないのではないでしょうか?なんかケーキのようにいつのまにか切り取られてお終い、みたいな印象です。

しかしポーランド分割はポーランドの構造的な問題から他国への干渉を招いた経緯もあり、またポーランド人も黙って分割されるのを見ていただけではなく、様々に改革の取り組みがなされ、それでも抗しきれずに国家消滅の憂き目に合うことになったのです。

 

1. 衰退するポーランド

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Image by Halibutt

貴族の国ポーランド

ポーランド王国は14世紀にヤゲウォ朝によってリトアニアと同君連合国となり、16世紀には制度的に両国が統合されました。

その領域はバルト海沿岸、ウクライナにまで至る広大な地域で、東欧では最大の版図を誇りました。

しかし、17世紀半ばのウクライナ・コサックの蜂起によるヘーチマン国家の成立、ロシアやスウェーデンとの戦争の敗北、さらにはバルト海貿易の衰退により国力は衰えていきました。さらには、農場領土制のもとで農民は農奴同然の扱いを受けており、都市も地方も活気を失っていました。 当時のポーランドの主導権を握っていたのは、国民の約1割を占める貴族(シュラフタ)で、国王も貴族によって選ばれていたし、議会も貴族が独占していました。

議会は上院と下院があり、上院はカトリック教会の司教と高位聖職者、下院は地方議会の代議員から成りましたが、ともに貴族が牛耳っており、国王による改革の試みも保守的な大貴族により否認され、貴族が自分たちの利権や既得権益を守るための装置でしかなかったのでした。

ポーランド貴族は自分たちは「古代遊牧民族サマルティア人の末裔」と称し、下位の身分の農民たちは被征服民の末裔などと決めつけて支配を正当化し、またプロテスタントや正教徒、ユダヤ教などを排除しカトリックを以て至高とする排外的な雰囲気に満ちていました。

 

大貴族の対立・他国の内政干渉

1697年、隣国ザクセン公国出身のアウグスト2世がポーランド王位に就き、ザクセン公国とポーランド王国の同君連合であるザクセン朝が成立しました。

これに対し反アウグスト2世派が蜂起し、北のスウェーデンがポーランドに侵攻しました(北方戦争)。フランスとスウェーデンはスタニスワフ・レシチンスキを国王に担ぎ、一方のアウグスト2世はロシア・オーストリアの支持を得て戦いが行われ、結局ポルタヴァの戦いでスウェーデンが敗れることで、アウグスト2世がポーランド国王に返り咲くことになりました。

この戦争の背景には、当時のポーランドの貴族の2大派閥「チャルトリスキ家」と「ポトツキ家」の対立があり、大貴族同士が勝手に外国と結び国内に引き入れることで戦禍が拡大していったのです。 また議会は敵対する派閥の足を引っ張ることに終始され、建設的な議論がほとんど行われない有様だったのでした。

 

 

2. ロシアの属国化への道

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スタニスワフ・アウグストの改革

1764年9月、チャルトリスキ家一門の有力家・ポニャトフスキ家出身であるスタニスワフ・ポニャトフスキが、ポーランド国王スタニスワフ・アウグストとして王位に就きました。

スタニスワフは若い頃、イギリス大使の秘書としてロシアを訪れた際、後の女帝エカチェリーナの愛人となっていた男。国王アウグスト三世の死亡後、エカチェリーナの推挙でスタニスワフはポーランド国王に選出されました。

改革派のスタニスワフはロシアの支持を背景に様々な改革に乗り出します。国王による議会の主導権確保、貴族への課税、中央集権的な行政機関の創設、財政基盤強化など、これまで貴族によって停滞していた改革を大胆に推し進めていきます。

貴族層は既得権席の侵害に反発し、プロイセンに支援を求めて改革への抵抗を求めました。スタニスワフはロシアに仲介を求めますが、ポーランドの手綱を握っておきたいロシアはこれを黙殺。1766年の議会で貴族への課税は廃止されてしまいました。

 

「基本法」の確定

プロイセンとロシアは、常に「弱いポーランド」であることを望みました。そのためには国王が弱く貴族が強い状態が望ましかったのです。

そこで両国が持ち出したのが、

「信仰の自由を認め、プロテスタントと正教徒に議会や官職を開くように」

というもの。当時のポーランドではカトリックでないと議席を持ったり官職を得たりすることはできなかったのですが、両国はプロテスタントと正教徒を議会に送り込み、内側から改革の進行を阻止しようと考えたのでした。

1768年、ロシアの軍事的な圧力の下で、議会は非カトリックへの議席を認め、さらに国制の枠組みに関わる「基本法」が定められました。

これにより、貴族による議会の運営、選挙王制、貴族による拒否権の発動など、旧来の制度が「基本」として固定され、さらにこの体制を変更するには「ロシアの承認が必要」とされました。 租税や軍事など一部の改革案件は存続を認められたものの、この時点でポーランドは事実上、ロシアの属国となったのでした。

 

 

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3. バール連盟の闘争、第一次分割(1772年)

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1768年、トルコ国境近くの町バールで、「反改革・反国王」の守旧派が「バール連盟」なる組織を結成しました。

この連盟は非カトリックによる議席の獲得と改革の一部の推進に反発し、ロシアの内政干渉に反発する貴族が多数参加したものでした。

バール連盟のコアにあるのは保守的な貴族でしたが、祖国解放という理念の元、啓蒙主義派や改革派も参加してフランスとトルコの援助を受けて抵抗が4年間に渡って続きました。 これはポーランド初の民族的抵抗運動でしたが、これが第一次ポーランド分割のきっかけとなることになります。

 

ロシア・プロイセン・オーストリアの領土対立

七年戦争後、ヨーロッパでは「北方体制」と「南方体制」の二大陣営の対立構造が発生しました。

北方体制は「イギリス・スウェーデン・デンマーク・プロイセン・ロシア」で、南方体制は「トルコ・スペイン・フランス・オーストリア」で構成されました。

主な領土対立はオーストリアが要求するプロイセン・シュレジェン地方と、プロイセンが要求するポーランド・ポンメルン&東プロイセン。 この領土対立は、ロシアがポーランドの影響を保持し続ける限りは保たれていたのでした。

しかし、バール連盟による反乱でロシアのポーランドにおける覇権が揺らぐと、シュレジェンの代わりにポーランドを分割することで三国の対立を解消させようという案が急浮上したのでした。

 

1773年9月、分割案は共和国議会によって可決されました。 これにより、プロイセンはポンメルンと東プロイセン(青)、オーストリアはガリツィアとマウォポルスカ(茶)、ロシアは西ドヴィナ川東岸(薄緑)を獲得。 ポーランドは領土・人口の1/3を失うことになりました

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4. 穏やかな改革(1773年〜1791年)

第一次ポーランド分割は、それまでの共和国の体制も新たに規定しました。

国王の力は大幅に削がれ、代わりに常設評議会と呼ばれる議会が設定されました。常設評議会は行政を監督し法案を立法し議会に提案する権限も持っていました。これは引き続き、ロシアの息のかかった連中がロシアの望む法案を提出する装置に過ぎず、政治改革は遅々として進みません。その代わりに改革の機運は教育と経済分野で進むことになりました。

 

教育改革・経済改革

第一次分割後は教育改革が推進され、貴族学院や騎士学校といった学校が創設され、これは中小貴族の子息を教育し祖国に奉仕するためのエリート養成施設となりました。ここから、後に民族の英雄となるコシュチューシコが現れています。

さらには、全国の学校は国民教育委員会の指導下に入り、ポーランド語による教育が一律に実施され、それまでは貴族のものだったポーランド意識が全国民的に広がりを見せたのです。

 

また第一次分割によって経済は大打撃を受けますが、新たな運河の建設によってバルト海と黒海の輸送路が確保されて交易による収入が上がり、また国王主導で株式会社や鉱物資源の探索など積極的に経済的な苦境から脱しようという試みが見られたのでした。

 

体制改革の実現

1783年、ロシアがトルコの影響下にあるクリミアを占領したことで均衡が崩れ、1787年7月にトルコがロシアに宣戦布告。露土戦争の勃発です。

オーストリアはロシアに味方し、プロイセンはイギリス・オランダと三国同盟を結びトルコに味方し緊張が高まりました。

危機の拡大の中でポーランドでは反ロシア感情が高まり、プロイセンとの同盟を主張する一派が力をつけました。

1790年3月、ポーランドはロシアとの約束を破ってプロイセンと同盟を結ぶに至りました。この同盟はプロイセンによる港町グダンスク割譲要求をポーランドが拒否したことで冷え込み、1792年1月のヤッシー条約により露土戦争が集結した後、ポーランドはロシアと敵対的な関係となってしまいます。

しかし、ロシアの軛を脱したことで政治改革がもたらされることになりました。

1791年5月に四年議会は「5月3日憲法」を制定しました。これはこれまでの「基本法」を根本的に覆し、王権の世襲化・三権分立・都市法・統治法など改革的な制度が盛り込まれました。

都市法では貴族に市民権取得や職業取得を促す一方で、都市民のうち一定の納税をしかつ公役・軍役に就いた者に貴族と同じ位を認めました。これにより、有能な下層階級出身者の社会上昇と無能な貴族の排除が進むことになりました。

 

このような変革を可能にしたのは、一連の教育改革によって改革を志向するインテリが多数育成され、彼らと国王スタニスワフが手を結んだことが要因でした。

国王スタニスワフと改革派イグナツィ・ポトツキ、フーゴ・コウォンタイらは密かに憲法案の準備を進め、1791年5月3日にロシアの息の掛かった議員らが休暇で帰郷した隙を狙ってクーデターを起こし、憲法を採択してしまいました。

改革を推進した四年議会の議員は、1790年の選挙で6割強が教育改革によって育った若い議員たちで、彼らは啓蒙的思想の中でポーランドを復活させようとする強い志を持っていたのです。

これに対し、守旧派の貴族たちは「基本法」の復活を目論見、ロシアに支援を求めることになります。これが第二次ポーランド分割の引き金となりました。

 

 

5. 第二次分割(1793年)、第三次分割(1795年)

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ロシア・ポーランド戦争の勃発

1792年5月19日、シチェンスニィ・ポトツキら貴族の要請を受け、女帝エカチェリーナ2世はロシア軍9万6,000をポーランドへと侵攻させました。

迎え撃つポーランド軍は4万5,000ほどで、各地で連敗を重ねました。改革を主導した国王スタニスワフも前線に出ることなく、エカチェリーナ2世の要求に屈し、とうとう「5月3日憲法体制」は崩壊。改革派の指導者たちは亡命しました。

 

1793年1月、プロイセンとロシアは第二次分割条約に署名

プロイセンはヴィエルコポルスカ(水色)を獲得し、ロシアは西ドヴィナ川とドニエプル川西岸のかなりの部分(ピンク)を獲得しました。

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コシュチューシコの蜂起

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 1793年6月に始まった議会では、第二次分割が批准され、「基本法」と常設評議会の復活が宣言されました。しかし、改革を求める愛国者が数多く生まれていたポーランドにおいて、このような旧態依然とした体制がうまくワークするわけはなかったのでした。

ポーランド国内では地下抵抗組織が形成され、亡命した改革派は革命フランスの援助を要請し蜂起の準備を進めました。

 

1794年3月、アントニ・マダリンスキの率いる騎兵隊が蜂起。同時に、アメリカ独立戦争にも参加した軍人タデウシュ・コシュチューシコがクラクフにおいて「蜂起声明」を布告し、国民最高評議会を設置し「自由・全体・独立」を掲げました

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この反乱にはポーランド全土で約30万人もが動員され、改革派のみならず、貴族、都市民や農民などあらゆる立場の人間が自発的に蜂起に加わりました。

特に農民軍は大きく活躍し、鎌を改造したお手製の武器でラツワヴィツェの戦いでロシア軍相手に奮戦しました。最高司令官は農民の動員率を高めるために「すべての農民の人格は自由である」と布告し、蜂起に参加した農民の賦役は免除されるとしました。これには貴族が反発し、蜂起側の中での内部対立を招くことになります。

内部対立は貴族を中心とした穏健改革派「タルゴヴィア派」、より徹底した革命を求める急進的な「ポーランド・ジャコバン派」の内部対立となっていき、蜂起側の混乱が表面化していきます。

その一方で戦況は蜂起側に不利に展開していき、1794年6月にシチェコチニィでプロイセン・ロシア軍に敗れ、次いで6月末にオーストリアが南から侵入。さらに10月10日にマツィェヨヴィツェで再び敗北。この戦いでコシュチューシコは捕虜になってしまいます。 指導者を失ったコシュチューシコ軍はなすすべなく、10月16日にロシア軍司令官アレクサンドル・スラヴォフの出した降伏条件を呑み、降伏しました。

 

翌1795年10月、ロシア・オーストリア・プロイセンによって残りのポーランド分割に関する合意が成立。国王スタニスワフ・アウグストは退位し、ここにおいて共和国ポーランドは地上から消滅したのでした。

 

 

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まとめ

表面的に知るだけだと、弱小なポーランドが列強になすすべなく領土を削り取られていくような印象がありますが、実際のところ、ポーランド内部の構造的な問題や、いくつも訪れた改革のチャンスを守旧派によって潰されてしまった不運が大きく関係していることが分かります。

加えて、国際的な対立関係にも大きく揺さぶられることとなりました。

しかし、国を復活させようとする愛国者の活動は、国家消滅後も国外・国内問わず活発に行われ、123年後の第一次世界大戦終了後の1918年に第二共和国が復活するに至ります。もし、分割時期に国を改革しようとする努力と人材の育成を怠っていたら、本当にポーランド国家はこの世から消滅し現在存在しなかったかもしれません。

 

 

参考文献

岩波講座 世界歴史17 環大西洋革命  岩波書店 「消滅した国家ポーランド」小山哲

 

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