ひっそりと消えゆこうとしているヨーロッパの少数民族
西ヨーロッパの少数民族のまとめの続きです。前回は、
- フリース人(ドイツ・オランダ)
- ソルブ人(ドイツ)
- コーンウォール人(イギリス)
- アイリッシュ・トラヴェラー(アイルランド)
- ガリシア人(スペイン)
を紹介しました。今回は、スペイン、イタリア、スイスの少数民族です。
6. メルチェーロ(スペイン)
Work by Javier cuervo
フランコ時代に定住生活に入った出自不明の流浪集団
メルチェーロは、キンキ(quinqui)ともキンキリェーロ(quinquillero)とも言われます。「巡回鋳掛屋」という意味の移動職人集団です。
彼らの出自ははっきり分かっておらず、15世紀にドイツからやってきた銅細工士集団という説や、抑圧によって流浪生活に入ったムーア人の子孫という説もあります。有力なのが、16世紀の飢饉で土地を失ったカスティーリャの小作農が流浪生活を行うようになったというもの。
メルチェーロの生活様式は独特で、何ら宗教を保有しておらず、家父長制だが族長はいない。結婚式はなく、駆け落ちで夫婦となる。貞節が重要で、不貞を働くと一族から罰せられる。
彼らは長年流浪生活をしながらローカルの伝統工業を担ってきましたが、1950年代に工場の大量生産化により役割を失い、しばしば車の窃盗や押し込み強盗に手を染め社会問題化しました。そのため時の独裁者フランコは、メルチェーロの移動生活を禁止し強制的に定住させました。
旧カスティーリャ、エブロ渓谷、エストレマドゥーラに約15万人ほどが住んでいるそうです。
7. 南チロル人(イタリア)
イタリアにあるドイツ系農民の居住区・南チロル
南チロルはオーストリアとの国境にあるトレンティーノ・アルト・アディジェ州の最北部に位置する領域で、住民の多くはドイツ語を話します。農業地帯でぶどう栽培や牧畜、林業が主要産業。
イタリアは第一次世界大戦の勝利にあたって、敗北国オーストリアから南チロルを割譲させました。南チロル人はこれに反発しイタリア軍に対しゲリラ戦を展開するも鎮圧されてしまいます。ドイツ語は禁止され、名前もイタリア風に改められ、支配層もイタリア人に取って代わられ、また南チロルへのイタリア人の入植が進められました。ドイツとイタリアが同盟を結んで以降は、南チロル住民のドイツ移住が進み、7万5000人がドイツへと移住しました。
戦後、再び南チロルはイタリア領に据え置かれたため、オーストリアはこれに反発し、南チロル人もオーストリア併合を求めますが認められず。ドイツ語教育とドイツ風の名前を使用する権利、一部自治権は認められましたが、イタリア人の入植が引き続き進み1960年代には約40%程度がイタリア系住民となってしまいました。
南チロル人はさらなる自治権を政府に要求し、1972年に南チロル人が住むボルツァーノ自治県は通貨・税・外交・防衛以外の全ての権限を与えられるに至りました。
県議会においても民族政党である南チロル国民党は多数政党であり、目下は広範な自治の元、ドイツ系とイタリア系住民の平和的な共存が続いています。
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8. ジュラ人(スイス)
スイス北西部にあるフランス系カトリック住民の居住区
スイスの北西部ベルン州の北部、フランスとの国境山岳地帯にはフランス系住民のジュラ人が住んでいます。
ジュラは900年もの間、神聖ローマ帝国内の自治権を持つ司教兼任諸侯領であったため、ローマ・カトリックの信奉が厚い地域。ナポレオン戦争でフランスの衛星的革命共和国として独立しますが、1815年にウィーン会議によってスイスのベルン州に加えられました。ベルン州はドイツ語圏のプロテスタントで、そこにフランス語圏のカトリックの地域が加わったわけです。
ジュラ人はジュラをスイスの独立した州にすることを望み、政治団体のジュラ連合を結成しベルン州政府への抗議行動を繰り広げました。ユース組織であるベリエ団はテロ活動や議会の妨害などの破壊活動を繰り広げ、スイス民兵と小競り合いを繰り広げるほどでした。
1978年9月に住民投票が行われ、ジュラは新たな州として認められ、ベルン州からの分離が決定しました。現在の住民は約7万人で、そのほとんどがフランス語の話者です。主な産業は、時計工業、伝統織物、たばこ生産で、牛の放牧など農業従事者も多い地域です。
9. フリーウリ人(イタリア)
古いレート・ロマン語からの派生語を話す人々
フリーウリ人が住むのは、イタリア北東部のフリーウリ・ヴェネツィア・ジュリア州で、スロベニアとオーストリアの国境地帯です。有名な港町トリエステが州都です。
フリーウリ人が話すフリーウリ語は、ローマ帝国崩壊後にラテン語から派生したもの。ローマ帝国時代はフリーウリはパトリア・フォリー・ユリイーという名前で知られ、942年に独立国家となり、1797年にナポレオンに占領されるまで独立を維持しました。そのため、古い言語が現在に至るまで維持されることとなったのです。
フリーウリは1814年から1866年までオーストリアの支配を受けた後、イタリア王国の領土となりました。
第二次世界大戦後、フリーウリの言語と文化がないがしろにされているとして自治の要求が高まり、モヴィメント・フリーウリという政党を中心に自治拡大を求める運動が始まりました。しかし、経済的な脆弱性やフリーウリの保守的な性格から、自治権は未だに認められていません。
フリウーリ語の話者は現在およそ60万人ほど存在し、ユネスコの「危機に瀕する言語」に指定されています。自治権は未達成ですが、2007年にはフリウーリ語の公的機関での使用とフリウーリ語地名の表記が初めて認められました。
10. ラディン人(イタリア)
少数民族の地域に住む少数民族
ラディン語もフリーウリ語と同じく、レート・ロマン語に属します。
しかしラディン人の数はもっと少なく、およそ3万5000人しか存在しません。
ラディン人が住むのはイタリア北西部、南チロル人が住むボルツァーノ自治県。少数民族の居住区に住むさらに少数民族といったところです。
Work by Hanno.
ラディン人は15世紀のヴェネツィア戦争で南チロルのドイツ系住民と共闘し、イタリア人とフランス人を打ち破っており、それ以降ドイツ系とは連携してきました。南チロルがオーストリアではなくイタリアに併合されることになった時は、南チロル人と共に抵抗運動を繰り広げています。イタリア支配下では文化や生活様式のイタリア化とラディン語の禁止が推進され、ファシスト政権下での南チロル人のドイツ移住の際も、約2000名のラディン人が南チロル人と共にドイツに渡りました。
戦後もラディン人は南チロル人と共に歩み、自治区ではなく南チロルのボルツァーノ自治県に入ることを多くは望みました。ラディン語話者はボルツァーノ自治県の他に3つの県にまたがって住んで統合する気配がなく、政治的に脆弱であることに加え、ラディン語話者自体も現象しており、ユネスコの「危機に瀕する言語」にリストアップされています。
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まとめ
2回に渡ってヨーロッパの少数民族を見てきました。
もちろんこれだけではなく、サーミ人、グリーンランド人、デンマーク系ドイツ人、オクシタニア人などなど、今回リストアップできなかったたくさんの少数民族がいます。
これらの少数民族が抱える問題は、前編の冒頭で述べた中東や近東、北アフリカからの移民によって相対的に小さくなっており、また独自の言語や文化を守るために中央政府から距離を取ろうとしてもできないほど、その力は脆弱なものとなりつつあります。
特にインターネットの普及で急速に文化や言語の同調化が進んでいる現在、これらの少数民族がどこまでそのオリジナリティを維持できるのか、甚だ心もとないところです。
参考文献
世界の少数民族を知る事典 ジョージナ・アシュワース,辻野功 明石書店
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