「毅然とした態度」とはなんだろう
ニュースとか見てると「毅然とした態度が求められる」とかって言いますけど、実際どんな態度が毅然とした態度ってみんな思ってんでしょうか。
確かに「強気な態度」はカッコいいし、見ていて気持ちがスッキリするものですけど、後先考えずに小手先のパフォーマンスで「毅然とした態度」を取るのはただのポピュリズムのようにも思えます。
要は使いようだと思うのですが、歴史上の伝説的な「毅然とした態度」にはどのようなものがあり、どのような結果となったのでしょうか。
1. チェコスロヴァキア大統領、ルドヴィーク・スヴォボダ
「もし私が死ねば、全世界はあなたが私を殺したと信じるだろう」
1968年1月、チェコスロヴァキア共産党第一書記にドゥプチェクが就任し、「人間の顔をした共産主義」を標榜するドゥプチェク体制がスタートしました。チェコスロヴァキアの変革運動、いわゆる「プラハの春」のスタートです。
しかし同年8月、ソ連軍を筆頭とするワルシャワ条約機構軍が軍事介入をしドゥプチェクをはじめ主だった指導層26名を逮捕しソ連に連れ帰ってしまいました。
チェコスロヴァキア大統領でプラハの春のリーダーの一人であったルドヴィーク・スヴォボダは、事態の収拾のためにモスクワに渡りソ連書記長ブレジネフと会談し、拘留された26名を解放するように求めました。
ブレジネフは直ちにこれを拒否。すると、スヴォボダは懐から拳銃を取り出し自分の頭に突き付けてこう言い放ちました。
「もし私がこの場で死ねば、あなたの手のひらは私の血で汚れることになる。世界中で誰1人として、あなたが私を殺さなかったと信じないでしょうからな」
この機転がきっかけでドゥプチェクをはじめ26名のチェコスロヴァキアの指導者は解放されプラハに帰国できたのでした。
2. イタリア人ジャーナリスト、オリアーナ・ファラーチ
「こんなバカげた古臭い布なんて脱いでやるわ」
オリアーナ・ファラーチはイタリアの女性ジャーナリストで、第二次世界大戦中はファシストに抵抗した経歴を持ち、戦後は多くの国際的な指導者や著名人にインタビューを重ね、その挑発的で権威に屈しない報道姿勢から世界中のジャーナリストから尊敬をされていた人物です。
彼女のインタビューで最も有名なものが、イランの指導者ホメイニ師へのインタビュー。
イラン・イスラム革命後、ホメイニ師は女性の公職への道を極度に制限し、結婚年齢を13歳に下げるなど、女性の役割を「本来のイスラム的」な姿に戻したのでした。
1979年、ファラーチがホメイニ師にインタビューする際、イラン側はファラーチに伝統的なチャドルを頭から被るように要請。ファラーチはそれを被ってインタビューに臨んいたのですが、彼女のあまりにストレートで物怖じせず、「無礼な」対応にホメイニ師がいら立ちはじめ、うんざりしてこう言いました。
「チャドルが気に食わぬのなら、脱いでも構わんのだぞ。それは"善良な女性"が身に着けるものじゃからな」
ファラーチは目を見開いて言い放った。
「あらそうですか、お優しいこと。そうおっしゃるなら、こんなバカげた古臭い布なんて脱いでしまおうかしら」
ファラーチはチャドルを脱ぎ捨てた。
ホメイニ師は激怒し、立ち上がって去って行ってしまいました。
このインタビューを記録した本は、当然イランでは発禁処分になりましたが、権威に屈しないファラーチのジャーナリスト魂は伝説になったのでした。
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3. ギリシャ首相、イオアニス・メタクサス
「OXI(NO)」
第二次世界大戦勃発後、イタリアの独裁者ムッソリーニはバルカン半島での覇権の拡大と連合軍勢力の排除を目指し、ギリシャ国内におけるイタリア軍の自由行動権を求めた最後通牒を突きつけました。
10月28日、ギリシャ首相イオアニス・メタクサスはこの通告に対して、ただ一言
「OXI(NO)」
とだけ打電。
イタリア軍は直ちにイタリア領アルバニアからギリシャへの侵攻を開始しました。
イタリア軍は1/10の規模のギリシャ軍を侮ってわずか7個師団で充分と考えていましたが、ギリシャ軍は山岳地帯を利用したゲリラ戦術を駆使してイタリア軍を苦しめ、3週間以内にイタリア軍をアルバニアとの国境地帯にまで追い出し、さらに逆にアルバニア領内にまで攻め入る始末。
結局ムッソリーニは追加で20万人を投入し、さらにはヒトラーに支援を求めドイツ軍3個師団も投入し、ようやくギリシャ全土を制圧しました。
しかしギリシャ制圧のために時間を食ってしまい、予定していたソ連侵攻のスケジュールが遅れ、その遅れが独ソ戦に大きな影響を与えたのでした。
4. イギリス人少年、スチュアート・ロックウッド
フセイン大統領を睨み付けた5歳の少年
1990年8月2日、イラクのサダム・フセインは「クウェートの反体制派を支援する」という名目で隣国クウェートに侵攻。
わずか2日で全土を制圧して傀儡国家であるクウェート共和国を成立させ、主に石油産業に従事していたアメリカ人、イギリス人、中国人、ロシア人などのビジネスマンや領事関係者、その家族らを人質に取りました。
世界中から非難が高まる中、フセインは諸外国の人たちは決して人質に取られたわけではないし、我々イラクの元で自由に楽しく暮らしているとアピールすべく、CNNのカメラを入れて自分と人質外国人との「楽しいお遊びの時間」を世界中に放映させました。
ところがフセインの横に連れてこられたイギリスの5歳の少年スチュアート・ロックウッドは、楽しい遊びには一切興味を示さず、ずっとしかめっ面で腕を組み、フセインを軽蔑的な目で睨み続けました。
何というか、大人のこざかしい手口が子どもの純粋さによって一発で化けの皮が剥げたような感じです。これを見た世界中の人々は、「義」がどちらにあるのかを一発で理解したことでしょう。
結局国際社会の圧力もあってフセインは人質を解放せざるを得なくなり、国連軍による介入が始まることになったのでした。
5. ユーゴスラヴィア大統領、ヨシップ・ティトー
「まだ暗殺者を送るなら、こっちからも送り込んでやるぞ」
ヨシップ・ティトーは言わずと知れたパルチザンの英雄で、ユーゴスラヴィア連邦の初代大統領。大戦中はロクに援助もなかったにも関わらず、ドイツ軍・イタリア軍を相手に優位に戦闘を進めてユーゴスラヴィア全土の解放に成功しました。
戦後、多くの東側諸国はスターリンの傀儡となっていきますが、ティトーのユーゴスラヴィアは独自路線を取りソ連とは距離を置く構えを見せたため、スターリンは何度もティトーの排除を試みました。簡単に言うと暗殺です。
しかしティトーは何度もスターリンの暗殺計画を見破り、ある時手紙を寄こしました。
「もうこれ以上暗殺者を送るのはおよしください。今度は私がモスクワに暗殺者を送ることになるだろうが、二度も送ることはないでしょう」
スターリンはその手紙を自分のデスクに置いていたと言われています。臥薪嘗胆というやつでしょうか。1953年に死ぬまで、スターリンはティトーの暗殺の方法を考えつづけていたそうです。
まとめ
極端な考えの人たちは、他国が屈しない場合「国交断絶しろ」とか平気で言います。
けど、変なプライドだけは高くて他者を見下し、後先考えずに我儘を通すのは「毅然とした態度」ではないと思うのです。
今回紹介した人たちが本当のところどこまで計算していたか定かではありませんが、態度や行動に移したことによって他者がどのようの受け取って次にどのような行動になっていくかを考えた上でのアクションでないと、無責任に強固姿勢をとるのは逆に無責任な態度ではないかと思います。
参考サイト
" 5 Badass People Who Stood Up to Infamous Dictators" Cracked