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ブラジルの近現代史(2) - 帝国の崩壊と共和国の発展

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共和制ブラジルの発展とナショナリズムの成立

 21世紀の大国・ブラジルの近代史をまとめています。

前回はブラジルがポルトガルから独立し帝政の下で政治的・経済的な安定を図りつつ、対外拡張戦略によってナショナリズムを高揚させ、一方で奴隷制廃止という大きな方針転換を成功させた歩みをまとめました。前回の記事はこちらから。

今回はブラジルが経験した最も大きな戦争であるパラグアイ戦争から、帝政の崩壊、そして共和制初期までをまとめていきます。

 

 

3. パラグアイ戦争の勃発

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周辺各国に介入を続けるブラジル

ペドロ二世時代、ブラジルの最大のライバルは対外膨張主義を進めるアルゼンチンでした。

アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスは、ウルグアイとパラグアイを含めた地域を「大アルゼンチン」として併合しようとしており、ブラジルはこれに対抗する形で、緩衝国ウルグアイとパラグアイへの干渉を強め親ブラジル派を支援しました。

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ブラジルは1844年にパラグアイの独立を承認し、ウルグアイの親ブラジル派・自由派コロラド党のフルクトゥオソ・リベラを支援します。

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一方アルゼンチンのロサスはパラグアイのアルゼンチンへの併合決議を実施したため、ブラジルは先手を打って1851年にウルグアイに介入しコロラド党のリベラを政権に就け、またアルゼンチンにも介入し反ロサスの自由主義者フスト・ホセ・デ・ウルキーサを支援。ウルキーサは1852年にロサスを敗走させ政権に就きました。

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パラグアイ vs ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ連合

一連のブラジルによる介入は隣国パラグアイを大いに警戒させ、パラグアイ大統領フランシス・ソラーノ・ロペスは「パラグアイを大国化し、ブラジルやアルゼンチンに操られない自存自衛の国家」を目指しました。

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ロペスは鎖国体制を作り男たちに軍事訓練を施し、南米で最も精強な陸軍を構築。来るべき戦争に備えました。

1863年、ブラジル政府はウルグアイ大統領ベロに「反ブラジル派ブランコ党による牛泥棒による被害の賠償と責任者の処罰」を求める最後通牒を送りました。ブランコ党であるベロはパラグアイのロペスに支援を求めてパラグアイ軍の介入を求めますが、ブラジル軍はウルグアイの港を封鎖しブラジル軍をウルグアイに展開させたため、ベロ大統領は失脚し、親ブラジル派のコロラド党フローレスが大統領に就任。ブランコ党の処罰と賠償金の支払いに応じたのでした。

ここにおいて、パラグアイ大統領ロペスはブラジル軍の戦線の乱れを突いて一気攻勢をかけることを決意

1864年11月12日、パラグアイ軍はパラグアイ川を封鎖しブラジル軍を拿捕し、精強な陸軍をブラジルのマット・グロッソに侵入させました。

パラグアイ戦争(三国同盟戦争)の勃発です。

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Work by Hoodinski

パラグアイ軍は要衝コインブラやコルンバを占領し圧力を高めると同時に、南下してアルゼンチン領コリエンテスに侵攻しました。ウルグアイの反ブラジル派を支援すると共に、アルゼンチンの反体制派ウルキーサに対し「クーデターを起こしアルゼンチン大統領に就き、ブラジルと共に戦おう」というメッセージでもありました。

しかしウルキーサはこの求めに応じなかったため、ブラジルはアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領とウルグアイのフローレス大統領と三国同盟を結び、1865年5月1日にパラグアイに宣戦布告しました。

パラグアイ・ウルグアイ・アルゼンチン連合軍と共にブラジルに攻め入り首都リオ・デ・ジャネイロを占領するというロペスの構想は瓦解し、逆に三国に攻め入られることになってしまいました。

しかしパラグアイ軍は少数精鋭で手強く、戦線が長いためブラジル軍は苦戦し、戦線は長期化します。

1866年に激戦の末にブラジル軍を主力とする連合軍がパラグアイ川を封鎖すると内陸国パラグアイは不利になり、4月に初めて連合軍はパラグアイ領に侵攻。しかしパラグアイ軍は「国土防衛戦」として女子どもも含め総力で抵抗を続けたため、連合軍の被害も甚大なものがありました。

▽リエチュエロの戦いでパラグアイ軍を殲滅するブラジル軍艦隊

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▽ウルグアイ軍砲兵

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1868年8月にパラグアイ防衛の最後の砦ウマイター要塞が陥落し、パラグアイ軍は総崩れとなって首都アスンシオンに退却しました。

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1869年1月5日、アスンシオンは連合軍の攻勢の前に陥落。ロペス大統領は自分に従う部下を率いて首都を脱出し北部に逃亡し戦いを継続しましたが、翌年3月にセロ・コラーの地で壮絶に戦死しました。

 

▽パラグアイ人捕虜

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▽首都アスンシオンを占領するブラジル軍

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ブラジルはパラグアイと講和を結び、国境をブラジル優位に書き換えました。アルゼンチンは武器を大量にブラジルに輸出することで儲けることができました。

一方でパラグアイは国民の約半分が死亡するという大きすぎる犠牲を払い、社会インフラや人的資源も崩壊し、二度と強国として立ち直れないほどのダメージを受けたのでした。

 

 

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4. 帝政打倒、共和国の誕生へ

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奴隷解放

パラグアイ戦争ではブラジル側の被害も三万から五万と大きく、また多大な戦費は通貨不安と対外債務の膨張を引き起こしました。

一方でペドロ二世は、かねてより宣言していた「奴隷制廃止」を推進しました。

戦争中、多くの黒人兵士が前線で活躍し仲間意識が芽生えたこともあり、多くの軍人が奴隷廃止論者となりました。政府は奴隷を解放した農園主に貴族の称号を与えたり、また文化人も奴隷解放を訴える詩を作ったり新聞に寄稿したりなど世論づくりを行い、人々のマインドは次第に奴隷解放に動いていきました

段階的に奴隷の解放が進んでいき、1848年にセアラー県とアマゾナス県ですべての奴隷が解放され、1873年から12年でリオ・デ・ジャネイロだけで1万5000人が解放されるなど、奴隷所有者による自発的な奴隷解放が進んでいきました。

1888年の段階で大部分の奴隷は解放されていましたが、これに伴い農作物の収穫量は4〜5割激減し国際収支は赤字に転落。

また奴隷を担保にした融資は回収不能になったため、債務不履行になる農園主が全国で相次ぎました。農園主を金融面で救済するために紙幣が大量に刷られたため大規模なインフレが起こり、一般民衆の生活は苦しくなっていきました。

 

軍部によるクーデター

このような不満を背景に、国内世論では帝政に対する批判が相次ぐようになります。

生活苦に対する不満を代弁したのが軍人。

軍人は命をかけて国に勝利をもたらしたのに、特権を受けることができずにインフレで生活が苦しくなるばかり。また皇帝や取り巻きは文人で、俺たち軍人に対する敬意が足りない。

1889年11月、軍部は王宮を包囲しクーデターを敢行。皇帝ペドロ二世はイギリスに亡命しました。ここにおいて、ブラジルの帝政は終わりを告げ共和制がスタートしました。

また、軍部によって共和制がもたらされたという事実は、以降のブラジルの歩みにおいて、軍部の政治的発言力を強める結果にもなっていくのでした。

 

5. ブラジル合衆国の成立

軍部によるクーデーターの成功でペドロ二世は亡命し、共和主義者の新政権が発足しました。

新政権は経済体制の近代化、政教分離、貴族の廃止、奴隷制補償制度の廃止、軍の倍増、男子普通選挙の実施など近代化政策を打ち出しました。

1891年2月には新憲法が制定され、三権分立と大統領の直接選挙が定められ、また地方分権的な連邦共和制が採用されました。

新しい国旗が制定され、国名は「ブラジル合衆国」と改められました。

しかし、早速大統領のデオドロと副大統領のフロリアノの対立が顕在化。陸軍は中央集権化を志向する副大統領フロリアノを担ぎ、海軍は大統領のデオドロを支援し一触即発となったため、デオドロは大統領を辞任し、フロリアノが副大統領から大統領に繰り上げになりました。これに反発した一部の軍部の反乱がきっかけで、陸軍による政治介入が発生。陸軍によってフロリアノは辞任させられ、初の文民出身のプルデンテ・デ・モライスが大統領に就任しました。

 

文民政権下での安定期

1894年から1909年までの政権下で、国内・国外の様々な問題の解決がなされ、安定的な政権運用がなされました。

 

・国境問題

ウルグアイ、フランス領ギアナ、ボリビア、オランダ領アンティルとの国境紛争が平和裏に解決され領土が確定。

 

・経済問題

ヨーロッパからの借款を得て財政問題をクリアし、また兌換制度を確立し通貨と経済の安定化を実現

 

・衛生問題

首都リオ・デ・ジャネイロの美化が実施され、スラムが撤去され黄熱病が駆除された。

 

・外国人移民

日本人移民をはじめ、安い労働力としての移民を受け入れた。

 

ブラジルの国際地位の上昇

1914年に第一次世界大戦が始まると、ブラジルは当初は中立を維持しますが、1917年4月にドイツ軍潜水艦によりブラジル商船が撃沈される事件が起きると、中央同盟に宣戦布告。南アメリカ諸国で唯一参戦し、54000の将兵と医療部隊を西部戦線に投入し、また大西洋の哨戒任務にも当たりました。

 

▽西部戦線に参戦したブラジル軍騎兵

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戦後はブラジルは戦勝国の一員としてヴェルサイユ会議に参加し、国際連盟にも加盟しました。

 

コーヒーによって潤う新興都市サン・パウロ

第一次世界大戦の好景気はすぐに後退し、不況により政治的な不安定がもたらされます。

民衆の救済を求めた青年将校による反乱が各地で発生しますが、政府軍により鎮圧されていきます。青年将校プレステスは反乱軍を率いてアマゾンのジャングルで抵抗運動を続け、後にブラジル共産党の党首となります。

 

全土が不況な中で、サン・パウロはコーヒー経済が活況で経済発展を続けていました。

解放された奴隷やヨーロッパや日本からの移民といった労働力によってコーヒー農園が次々と開かれ、増産に次ぐ増産を続けヨーロッパやアメリカに輸出しまくり、ブラジルの貿易収支は黒字に好転しました。

20世紀の初頭にはサン・パウロのコーヒー生産量はブラジル全体の70%を占めており、政府は過剰生産対策に取り組まねばならぬほどでした。

行き場を失ったサン・パウロの資本は工業部門に投資され、軽工業(繊維・食品・雑貨)の国産化が進むことになりました。

サン・パウロは政治的にも発言力を高め、1926年にはサン・パウロ出身のワシントン・ルイスが大統領に就任。改革を実行しようとしますが、要職をサン・パウロ出身者で固めたため、他の地方出身者から反発を招くことになりました。

 

 

6.ブラジル・ナショナリズムの形成

 帝政の終焉から共和制、そして第一次世界大戦を経て国際的地位を高めたブラジルでは、ナショナリズムの定義の模索が続いていました。

帝政末期の19世紀末では、「沿岸部はヨーロッパの延長であり、真のブラジルは内陸にある」とし、原住民や混血のメスティーソにブラジルの民族性を求める声が高まっていきます。一方でアングロ・サクソン優性遺伝子論と有色人種の劣性の考えも根強く、移民政策はヨーロッパ人が優先されました。

20世紀初頭ごろから、ブラジルの多様性と「ポルトガル人・先住民・黒人」の三種のミックスがブラジルの誇りであるという文脈が語られるようになっていきます。

この考えを裏付けたのが第一次世界大戦の勃発で、これまで模範社会と思われていたヨーロッパが無残に荒廃していく様を見て、多くのブラジル人はヨーロッパ文明が完璧ではないと知り、また大戦の勝利で自信を深めたこともあり、「ブラジルのブラジル化」が叫ばれるようになっていきました。

 

拡張するブラジル

1895年から15年間外務大臣に就いたリオ・ブランコは北の新興国アメリカの仲裁を得た上で、ボリビアやコロンビアなど周辺諸国から領土を購入し、ブラジルの国土を大きく拡大させました。この領土は29万4400平方キロ以上にものぼり、フランスの国土よりも大きいものでした。

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この時期、ブラジルは南米の大国として国際的にも注目され始め、南米諸国各地に外国公館を設置し、また南米諸国で初めてアメリカにも公館を置きました。

ハーグ会議にも代表団を送ったり、パン・アメリカ会議にも参加したりなど、国際的な存在感を高めました。

 

 

 

つなぎ

 ブラジル帝政時代は、政治の安定と経済の発展、また教育や銀行制度などの社会システムの整備などの基礎的な整備がなされ、後のブラジルの発展に重要な時期でありました。

次に生まれた共和制で、比較的安定した経済成長と政治の安定が生まれ、第一次世界大戦とその後の国際会議の舞台で、ブラジルは存在感を増し、ブラジル人は誇りと自信を持つに至ります。

次回は、そんなブラジルに世界恐慌の荒波が押し寄せ、危機を乗り切るためにファシスト体制のヴァルガス政権が成立します。

 

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参考文献

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史) 増田義郎 山川出版社

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

 

 

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