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ブラジルの近現代史(1) - 帝国ブラジルの野望

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21世紀の大国・ブラジルの近代史

ブラジルという国はGDPは世界9位(2016年度)であり、天然資源や工業部門で世界経済に占める割合は大きなものがあります。

日本人の移民の歴史も長く、3世や4世の日系人が日本で就職するケースも多く、人的な結びつきも強い国です。

にも関わらず、ブラジルの歴史というのはあまりにも馴染みがありません。

今回はブラジルがポルトガルから独立した1823年から20世紀までの歴史を、全4回に渡って追っていきたいと思います。

 

 

1. 独立の英雄・皇帝ペドロ一世

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 本国に反旗を翻したポルトガル皇太子

ブラジルは長い間、ポルトガル帝国の海外戦略の中心でした。

植民地ブラジルがあげる富の量は本国よりも大きかったし、ナポレオン戦争中はポルトガル王室はブラジルに避難しており、1815年から1821年の間、ポルトガルの首都はリオ・デ・ジャネイロにありました。

クリオーリョ(南米に生まれ育った白人層)は、自分たちが経済的に多大な貢献をしているのにも関わらず、本国の貴族たちが偉そうにのさばって見下した態度を取ることに我慢ならなかった

 

1820年、本国ポルトガルで立憲革命が勃発。リオ・デ・ジャネイロのジョアン6世は本国に帰国し、皇太子ドン・ペドロを摂政としてブラジルに残しました。

1821年に開催された議会で、ポルトガルの代議士は130名だったのに対し、ブラジルの代議士はわずか70人。少しの間でしたが帝国の首都があったブラジルはまた従属的な植民地に格下げされてしまいました。これはクリオーリョたちの強い反発を招きました。

国王ジョアン6世は皇太子ドン・ペドロに帰国を命じますが、ドン・ペドロはこれを拒否。クリオーリョの側に立ち、共にブラジルの独立を宣言しました。

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ドン・ペドロはブラジル皇帝ペドロ一世として即位しました。

 

政治的安定を目指して

本国ポルトガルは、1825年に以外なほどすんなりとブラジルの独立を承認しました。

承認の条件は、ポルトガル人がブラジルに残した資産や土地所有権の確認などの金勘定周りです。多くのブラジル人からしたら、なぜ連中のカネを接収してしまわないのか不満でしたが、皇帝ペドロ一世はしっかり金銭面の保証を行ったため、ポルトガルもブラジルの独立を認めたし、ポルトガルが認めた故にヨーロッパの多くの国も追従して独立を承認したのでした。

ペドロ一世は、広大な領域に住む複雑な民族構成の帝国の政治的な安定をまずは達成するため、皇帝を中心とした中央集権色が強い「1824年憲法」を公布させました

皇帝は議会の招集、解散の権限の他、知事や陸海軍大臣、大使、治安判事などの任命権を持ち、外交交渉権も持ち、また政治三権(司法・立法・行政)を超越する第四権をも持つことができました。当然ながら皇帝は政治的行為についての責任が問われることはありませんでした。

 

地方の反発

クリオーリョからしてみたら、せっかくポルトガルから独立して自分たちの好き勝手にできると思ったのに、ここまで強固な中央集権体制にされてしまうと独立した意味がないと不満がたらたら。皇帝の取り巻きはポルトガル人ばかりだし、そもそも皇帝もポルトガル王族の一員だ。

こうしてブラジル各地で中央集権化へ反発する反乱が相次いで発生。

1824年7月に北東部のペルナンブーコ県のレシフェ市がブラジル帝国からの独立と共和制国家「赤道連邦」の設立を宣言しました。

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赤道連邦はアメリカ合衆国に倣った地方分権を掲げ、ペルナンブーコ県に加え、マラニョン、バイーア、アラゴアス、パライーバ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、セアラーといった地域が相次いで参画。ペドロ一世はイギリスからカネを借りて傭兵を雇って半年近くでこの反乱を押さえ込みました。

また、南部のシスプラティーナ州も隣国アルゼンチンの支援を受けてブラジルからの独立闘争を開始しました。

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もともとシスプラティーナ州は、ラ・プラタ連合(アルゼンチン)のブエノスアイレスと自由主義者ホセ・アルティーガス率いる連邦同盟が領土争いを続けていたところで、1816年にポルトガル王ジョアン6世が横から軍事侵攻をして掠め取り、ポルトガル領としていました。

1825年、ホセ・アルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハがシスプラティーナ州で反ブラジルのゲリラ運動を開始。ラ・プラタ連合は公然とこれを支援したため、ブラジルはラ・プラタ連合に宣戦布告。ブラジル・アルゼンチン戦争が勃発しました。

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この戦争はラ・プラタ連合が戦いを優位に進め、シスプラティーナ州全体をアルゼンチンが制圧する勢いだったため、警戒したイギリスが仲介に入りました。そしてシスプラティーナ州を「ウルグアイ東方共和国」として独立させることで和解が成立。両軍が撤兵したのでした。

この事実上の敗戦はペドロ一世の求心力を弱め、とうとう1831年4月5日に宮廷前に暴徒が集まり反乱となり、これに近衛兵も参加したためペドロ一世は退位宣言を行い、ポルトガルに帰国しました。

 

 

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2. ペドロ二世治下の経済発展

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 近代化とヨーロッパからの移民

皇帝が退位した時、息子のペドロ二世はわずか5歳で、皇帝に就けるには18歳からだったので、元老会が選出する摂政による合議で政府を運営することになりました。

1834年に憲法が修正され中央集権体制が緩められ、連邦共和化が進んだこともあり、全国各地で反乱や分離運動が盛んになりました。しかし幸いにも国家分裂は防がれ、後の連邦体制下での政治的統合への自信につながっていきます。

さらにこの時期、近代化のための行政制度・教育制度が整えられ、出版の自由が規定され、財政が再編されました。加えて、有望なコーヒー農業に魅せられてヨーロッパから大量の移民がやってきました。彼らによりヨーロッパ流の労働規範や勤労意欲がもたらされることになりました。

 

政治・経済の安定と奴隷交易禁止

1840年に皇帝に就いたペドロ二世は、政治の安定を目指し自由党と保守党の二大政党に「四年で交互に政権を担当する」ことにさせました。この間に輸入関税が引き上げられ、国内産業保護と工業化のための布石が敷かれると同時に、銀行制度の改善で商業が活性化されました。

この時代、ブラジルとイギリスの関係は「奴隷問題」を巡って対立関係にありました。イギリスは人道的観点から奴隷の禁止を既に宣言しており、国際的にも「奴隷船は海賊船とみなす」とし自国の裁判にかけてすらいました。ブラジル国内では特に地方の農園の資本家に反奴隷解放の考えが強く、国内世論も大多数が「奴隷維持派」でした。

1846年の時点でブラジルは年間2万人ほどの奴隷を購入しており、イギリスはブラジルの領海内ですら奴隷船の拿捕を敢行したため、ブラジルの反英感情は高まっていました。

しかし国際的な圧力には抗しきれず、ブラジルも1850年に奴隷交易禁止令を発布。新規の奴隷の取引を禁止しました。

これにより、これまで奴隷交易に流れていた投資が国内のその他の産業に回ったこともあり、経済発展は一段と高まる結果となりました。

 

奴隷廃止運動の高まり 

1850年時点でブラジル国内の奴隷は200万〜400万人程度いたと推定されます。

普通に安価で買えた時代は、数年で廃人になるほどこき使うのが普通でしたが、新たな奴隷が買えなくなると価格も上がり比較的優しい待遇に変わっていきました。

温情的になってきたとはいえ、特に地方の労働力として奴隷は必要不可欠という意見が多数派。農園のみならず教会や政府ですら奴隷を保有しており、地方の人口の9割は奴隷という地域すらありました。

しかし1863年にアメリカで奴隷解放令が出され、アメリカ大陸で奴隷制を維持している国はブラジルとキューバだけになっていました。国際的な動きに同調し、皇帝や政府高官、都市知識層は奴隷制廃止に向けて動き始め、1864年に皇帝はパラグアイ戦争後の奴隷解放を示唆する声明を発表しました。

 

 

 

つなぎ

帝政ブラジルは広大で多民族な領土を安定的に統治すべく、中央集権的な体制を取りますが、各地の反乱も踏まえて次第に地方分権的体制に移行していきます。

また世界のトレンドでもあった奴隷解放も、国内に農園主という強固な反対層がいたので歩みは遅かったですが、確実に世論づくりを行い段階的に廃止に向かっていきます。

 

次回はパラグアイ戦争の勃発と、奴隷制廃止に伴う帝政の崩壊、そして共和制の始まりを見ていきます。

 

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参考文献

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史) 増田義郎 山川出版社

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

 

 

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