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東南アジアの優等生・タイの政治経済史(後編)

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腐敗と格差との戦いの中で混乱するタイの戦後史

1950年から現在までのタイの政治・経済史を前後編でまとめていきます。

今回は後編で、「半分の民主化」を成し遂げた1980年代のプレーム政権から2001年のタクシン政権、そしてタクシン追放から始まる現在の政治混乱までを追っていきます。

前半がをまだお読みでない方はこちらをご覧ください。

 

 

3. 中間層の時代(1980年後半〜1990年代半ば) 

プレーム政権下では内閣の主要ポストを国会議員で占めさせるなど政治の民主化が推進され、また抵抗を続ける共産主義勢力に対しては恩赦による政治工作を行い、その脅威を大幅に取り除きました。

共産主義勢力の脅威が減少したことでテレビなど農民・労働者も見るメディアでも大幅な自由があたえられるようになりました。

 

1980年代後半から90年にかけては3年連続で年10%の高い経済成長を達成。外資が次々にタイに進出し、エンジニアや会計士、管理職などのホワイトカラーのニーズが増えていきました。しかし需要に比して数は少なかったため、中間層の所得は急増。

必然的に政治的にも中間層の発言力が増加し、高度な民主主義と自由化を求めて軍人であるプレーム首相への非難が強まることになったのでした。

 

軍部との軋轢

1988年7月、安定した政権運営を続けていたプレームは政界からの引退を表明。

後任には、タイ国民党党首のチャーチャーイ陸軍大将が選ばれました。

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チャーチャーイ体制では、プレーム政権の緊縮財政政策を一変させ拡張的な財政政策を採用。公共事業の支出を大幅に増加させて資本家を喜ばせました。

しかし、巨額のカネが動く公共事業の発注を巡って汚職が蔓延。閣僚の多くが賄賂を受取り一部の資本家に便宜を図るようになったため、除け者にされた資本家や中間層の不満が高まるようになりました。

また、チャーチャーイ首相は軍出身ながら軍との良好な関係を築けず、陸軍司令官チャワリットを国防大臣と副首相に任命するも、あくまで首相の座を目指すチャワリットは新党・新希望党を結成。その後釜となったスチンダー陸軍司令官とも関係は良好ではありませんでした。

 

 

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4. 政治混乱の時代(1991年〜1996年)

1991年2月、スチンダー陸軍司令官を中心とする「国家平和秩序維持団」なる組織がクーデターを敢行。チャーチャーイ首相を解任し、「癒着や腐敗を一掃する」として、元実業家のアーナンを首相に任命。清廉な人材を閣僚ポストに就けて経営層や中間層から熱烈な支持を受けました。

しかし、翌年3月にスチンダ―陸軍司令官が首相に就任したため、中間層は民主化の後退であるとして大規模なデモを敢行。スチンダ―は退陣しました。

しかしその後も中間層が満足する政権は現れず、92年、95年、96年の選挙を経ても、相変わらず資本家と癒着した政治家が幅を効かせました。

 

中間層 vs 農民

なぜ中間層が癒着を憎み、規制緩和を求める政治家を応援したのに、選挙ではそうでない政治家が相変わらず強かったのか。

それは、人口の過半数を占める農民層がレガシーな政治家に投票したからです。

経済発展の恩恵を受けていないと感じる農民たちは、選挙のたびにカネをくれたり、地元に公共事業を持ってきてくれる政治家に票を投じたのです。このような政治家は中間層からすれば駆逐すべき前時代の産物であったのですが、農民にしてみたらそのような政治家こそが自分たちの意見を聞いてくれる存在であったし、むしろ中間層との格差の拡大こそが不満に感じていたのでした。

96年の選挙で第一党になったスチンダ―率いる新希望党は、首都バンコクでは不人気だったものの地方では多くの議席を獲得したのでした。

 

 

4. アジア通貨危機の発生(1997年)

1997年7月に管理フロート制への移行が発表されると、タイバーツは一気に大暴落。

株も不動産も大幅に値を下げ、債務不履行となり倒産する会社が相次ぎ、町には失業者が溢れました。GDPは97年にはマイナス1.7%、98年にはマイナス10.2%と大きく落ち込みました。

タイを震源とした「アジア通貨危機」はその後、インドネシアと韓国を直撃。3国はIMFの管理下に入り財政再建を余儀なくされました。

なぜ危機が起きたかは2つ説があり、どちらを採るかは政策思想の違いに依ります。

一つ目は、「政策の決定と実行過程において透明性と規制緩和が不充分であったから」とする説。

二つ目は、「急速に規制緩和を進めたために、外国資本を一気に受け入れすぎ、管理フロート制へに移行によりそれらの資本が一気に逃げ出したから」という説。

規制緩和論者と規制強化論者によって捉え方はまったく逆なんですが、いずれにせよ、まずは「政治とカネ」の問題を解決するのが先として、1997年の憲法改正では汚職と選挙違反の撲滅がテーマに置かれました。

 

チュアン政権による緊縮財政

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1997年11月に首相に就任した民主党のチュアンは、IMFの勧告を全面的に受け入れ財政再建を最優先させる道を選びました。

IMFの「痛みを伴なう改革」により、経済成長率は1999年には4.6%に上昇したものの、緊縮財政により雇用も株価も伸び悩み、企業の倒産と失業者の上昇が批判されるようになりました。

 

 

5. タクシン政権の発足と政治混乱(2001年以降)

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Credit: Presidential Press and Information Office

2001年の選挙で勝利したのは、チュアン政権の緊縮財政を批判したタイ愛国党のタクシン。

タクシンは農民の政府系金融機関に対する債務返済の猶予や、農村の公共事業の推進などを公約に掲げて農民層から圧倒的な支持を受けました。

中間層もタクシンの大規模な景気刺激策を支持し、地滑り的な勝利を収めました。

タクシン政権下で再度経済成長は軌道に乗り、アジア通貨危機の後遺症も克服して比較的安定した政権運営を行いました。

しかし、例によって巨大財閥のオーナーでもあったタクシンによる職権乱用や利益誘導、政治家の腐敗はまたもや中間層の批判の的になります。

 

2006年9月、陸軍最高司令官ソンティがクーデターを起こし、外遊中だったタクシンはイギリスに亡命。軍政を経て2007年12月に選挙が行われ、親タクシン派であるサマックの国民の力党が勝利し、民主政治を回復しました。

2006年以降、タイの政治は親タクシン派と反タクシン派に分かれ政治抗争を繰り広げ、混乱の末に軍がクーデターを起こす、という歩みを繰り返しています。

反タクシン派は「民主市民連合(PAD)」を結成し、王室を守るとして黄色のシャツを着てデモを行っています。

一方で親タクシン派は「反独裁民主同盟(UDD)」を結成し、タクシンの恩赦を主張しています。

基本的にはPADは「王党派・中間層・首都圏〜南部住民」UDDは「農民・低所得者・北〜東北部住民」で形成されていると言われますが、実際のところかなり複雑化しており、単純な区分で切り分けができないようです。

 

 

 

まとめ

 かなり長くなってしまいましたが、戦後から現在に至るタイの政治・経済の歴史をまとめました。

戦後のタイは、国内の共産主義が農民・労働者と結びつかないように注意しながら、民間主導の経済政策によって外国からの投資を呼び寄せて中間層を育て、まずは経済成長を達成して徐々に民主化を成し遂げていこうという歩みを見せました。

しかしその過程で、政治腐敗・表現の規制・農民と中間層=地方と都市の格差が拡大し、民主化のプロセスでそれらの問題が重たく頭をもたげてきました。

現在でも根本的には「腐敗」「格差」の問題は根強く、唯一国民全員から敬愛されていたプミポン国王亡き後、国民がどうやって一枚岩となって「混沌の世界」を乗り越えていくか、大きな岐路に立たされています。

 

 

 参考文献

 岩波講座 東南アジア史9 「開発」の時代と「模索」の時代―1960年代〜現在 1タイ 浅見靖仁

岩波講座 東南アジア史〈9〉「開発」の時代と「模索」の時代―1960年代〜現在

岩波講座 東南アジア史〈9〉「開発」の時代と「模索」の時代―1960年代〜現在

 

 

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