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論争や謎が残る7つの「悲劇の沈没船」

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未だに論争を呼び人々を引きつける沈没船

 技術の発達によって昔ほど船は沈まなくなっているはずなのですが、韓国のセウォル号やイタリアのコスタ・コンコルディアのように、客船が沈没したり座礁したりする事故が未だに起きてしまいます。

いくら技術が発達してもそれを操るのが人間であるので、人間自身が進化しないと事故はなくならないよ、ということなのでしょうか。

 セウォル号など、おそらく韓国の黒歴史として語り継がれていくと思うのですが、同じようにいまだに人々の間で議論を呼び関心を呼び続ける沈没船があります。

 

 

1. マーズ(スウェーデン)

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建造から捜索まで論争があるスウェーデンの「呪われた船」

 マーズは1563年〜1564年にスウェーデンで建造された軍艦で、強力な火砲を備えエリート船員が集められ、16世紀の最先端で最強の船でした。

スウェーデン王エリク14世はスウェーデンを大国にすべく対外戦争にあけくれた王ですが、国内ではカトリック教会の力を弱めるべく教会の鐘を強制没収して溶かし、その金属でマーズの大砲を鋳造してしまいました。

そのため、当時からマーズは「呪われた船」という噂がたったそうです。

さて1564年5月31日、マーズはデンマーク・ドイツ連合軍との戦闘に参加。バルト海沿岸のオランド島沿岸で激しい大砲の打ち合いを演じますが、とうとうマーズの大砲が熱くなりすぎて暴発。最終的に船は沈没しました。これにより900名の船員が死亡したそうです。

マーズには金貨銀貨などの宝物が積まれていたため、トレジャーハンターたちは長年流し求めていましたが発見されず、「死んだ船員の幽霊がマーズを発見できないように邪魔している」という噂すらたったほど。

2011年にとうとう「呪われた船」は発見されました。捜索したダイバーの証言によると、船の木材は焼け焦げており引き上げてすぐは「焦げた臭い」がした、そうです。

news.nationalgeographic.com

 

 

2. SS シティ・オブ・チェスター(アメリカ)

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 中国人移民論争を巻き起こした沈没事件

1888年8月22日早朝、サンフランシスコ湾で乗客乗員106名を乗せたSSシティ・オブ・チェスターがRMSオセアニックと衝突しました。

この日は濃霧で両乗組員はお互いが近い距離にあることを半マイル離れたところまで気づかずに回避行動ができずに衝突。RMSオセアニックは倍近い大きさがあり、SSシティ・オブ・チェスターは簡単に損傷し衝突のわずか6分後に沈没しました。

この事件による死亡者は16名で、3人は乗組員で2人は白人の子どもでした。オセアニックに乗船していた中国人船員は投げ出されたチェスターの乗員を助けるために果敢に行動し、1人の中国人船員は子どもを救助するために危うく自分まで死にかけるほどでした。

しかし翌日の新聞は、中国人船員の怠慢により白人の子ども2人が死亡した、とセンセーショナルに書き立てた

当時のアメリカでは増え続ける中国人・日本人移民に対し排斥運動が盛んになっており、いわゆる「黄禍論」が吹き荒れていました。

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実際にオセアニックには1062名の中国人が乗船しており、それを根拠にして人種差別主義者は「白人を殺す中国人を追い出せ」と声高に主張したのでした。

この事件の裁判が始まると、実際のところ中国人船員が英雄的な働きをした証言が数多く出てきて、一躍非難は賞賛に変わり、そしてすぐに忘れ去られたのでした。

2014年には沈没船の大部分が発見されましたが、引き上げの予定はないのだそうです。

 

 

3. サン・ホセ・パケ・デ・アフリカ(ポルトガル)

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最初の沈没した「奴隷船」 

南アフリカ・ケープタウン沖に沈むサン・ホセ・パケ・デ・アフリカは、記録が残る中での初の「沈没奴隷船」です。

この船はポルトガルが所有する船で、ブラジルのマランハオのサトウキビプランテーションで働かせる奴隷を運ぶ4ヶ月の航海をしていました。モザンビークで奴隷を積む込み、1794年12月にケープタウン沖にさしかかりますが、岬にさしかかるころに暴風に巻き込まれ、それを回避するために海岸近くを航行中に水中の岩に衝突し崩壊。

約400〜500名の奴隷は半数が溺れて死亡しました。

ポルトガル人船長は生き残った奴隷を直ちに「転売」したそうです。

この沈没船は研究者によって発見されており、奴隷の遺骨は発見されていませんが、当時の奴隷船によくあった船を支えるバラストが確認できるため、サン・ホセ・パケ・デ・アフリカに間違いないと考えれています。

 

 

4. HMSロンドン(イギリス)

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 未だに謎が多いHMSロンドン爆破事件

HMSロンドンは同名の船が歴史上いくつか建造されていますが、1656年に建造された船はダンケルク包囲戦に参戦したり、クロムウェルによって追放されていたチャールズ2世をイギリスに連れ戻したことでも名高い、歴史的な名船です。

この船は1665年にテムズ川河口で爆発事故を起こして沈没しました。

この事故で300名以上が死亡し、生き残ったのは24名の男性と1名の女性。

不可思議なのは、死亡者の中に異常に多くの女性が含まれていたのです。

彼女らが、乗組員の家族や恋人なのかまたは売春婦なのか、なぜ乗船していたのかなど一切不明。

またなぜ爆発が起こったのかも謎で、アングロ・オランダ戦争に向かう前に準備していた300バレルの火薬が何らかの原因で爆発したというのが定説ですがそれにも疑問が持たれており、2014年に探索チームが沈没船から発見した蝋燭や粘土パイプが原因という説もあり、まだ原因がはっきりしていません。

  

 

 

5. SS シティ・オブ・カイロ(イギリス)

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多額の銀塊を乗せ南大西洋に沈没した英商船

 1942年11月6日、南大西洋セントヘレナ島の南方770キロの地点を航行する英商船SSシティ・オブ・カイロがドイツ軍潜水艦・U-68の攻撃を受けました。

この船はインドのボンベイからロンドンに向かっており、150人の乗客を含む311人と、イギリスの戦争資金としてインドから5000万ドルの銀塊を運んでいました。

1回目の魚雷の命中で全員が避難をし救命艇に乗り込みました。2回目の魚雷でカイロは完全に沈没しました。(避難中に混乱で6名が死亡)

U-68は浮上してカイロの船長カール・フリードリッヒ・メルテンの救命艇に近づき、最も近い陸地に向かうよう指示をしこう言って別れを告げました。

 「あなたの船を沈没させてしまい、誠に申し訳ない。幸運を祈ります」

結局救命艇の沈没などで104名が無くなりますが、その他の生存者はイギリス船やドイツ船に救助されました。

なお、沈んだ銀塊は2011年のイギリスの調査チームによってほぼ全てが回収されました。この調査の際に、カイロにとどめを刺した2回目の魚雷のプロペラも発見されたそうです。

www.telegraph.co.uk

 

 

6. HMSヴィクトリー(イギリス)

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沈没船発掘をめぐった関係者の論争 

HMSヴィクトリーは1774年に暴風にあってイギリス海峡に沈み、少なくとも1000人が死亡したと考えられています。

この船の沈没は当時から論争になり、というのもこの船は当時の最新鋭艦で「不沈艦」と言われており、誰の過失なのか議論になったのです。メンテナンスを怠った軍の責任か、そもそもの設計が悪かったのか、あるいはカスケット島の灯台の管理人の責任か。

この船は長年捜索が続いていましたが発見されず、とうとう2008年にオデッセイ・マリーン・エクスプラレーションという会社によって発見されました。

これにより、船はカスケット島の100キロ西で沈んだことがわかり、カスケット島の灯台の責任ではなかったことがはっきりはしたのですが、HMSヴィクトリーをめぐった新たな論争が巻き起こることになりました。

実はHMSヴィクトリーには少なくとも10億ドルもの価値がある金貨4トンが積まれていると考えられ、政府との交渉の結果、リンフィールド卿が議長を勤める慈善団体マータイム・ヘリテージ財団がこの船の所有権を獲得。財団はオデッセイ社とも交渉し、発掘によりオデッセイ社は引き上げられた金貨の80%、武器などの軍艦の関連商品の50%を受け取ることになりました。

しかし、世論にはオデッセイ社が「歴史的遺跡」「古人の墓」を暴き暴利を貪ることに対する批判も根強く、またリンフィールド卿が利益を自身の家族に利益誘導をしていた疑いも発覚し、沈没船を巡った新たな論争が巻き起こっています。

 

 

7. ヴィルヘルム・グストロフ(ドイツ)

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Credit: Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183)  Photo by: Sönnke, Hans

 海軍史上最大の犠牲者を出した沈没船

ヴィルヘルム・グストロフは元々ナチス・ドイツがその威信をかけて建造したクルーズ船。

この船で大衆は安価にクルーズ旅行を楽しんだのですが、第2次世界大戦に入ると病院船に改造され、後にはバルト海沿岸のゴーテンハーフェンの浮遊港に改造されました。

1945年1月30日、押し寄せる赤軍から逃れてドイツ人難民はゴーテンハーフェンのヴィルヘルム・グストロフに押し寄せ、この船でドイツ本土に脱出する計画が建てられました。

搭乗員は2000名以下のところ大幅に上回る1万人以上が乗っていた上、しばらく運行をしていなかったため速力は出ず、ソ連の潜水艦の速力15ノットよりも低い13ノットで航行せざるを得ず、また護衛艦は小さな魚雷艇1隻のみでした。加えて、こっそり航行すれば怪しまれると思い、あえて「旅行中のクルーズ船」を装ってライトを煌々と照らして航海しました。

これが原因でソ連の潜水艦S-13に発見されてしまい、グストロフは3発の魚雷を受けて沈没。9000名以上が死亡するという、海軍史上最大の犠牲者が出た事件となりました。

グストロフに乗っていたのは殆どが避難民と負傷者で、また子どもが大半を占めていました。そのため、このソ連による攻撃が戦争犯罪に当たるという主張がありますが、グストロフは軍の船であったため戦象犯罪ではないという主張もあり、未だに議論があります。

 

 

 

まとめ

沈没した後は、誰の責任で沈没したのか、その原因は何か、回避する方法はなかったのか、が論争になり、いざ発見されると、所有者は誰なのか、誰の資産となるのか、引き上げは倫理的に正当かといった論争が巻き起こる。

まことに面倒くさいです。 

 いっそ「沈没船は引き上げてはならない」という国際法ができればラクな気もしますが、「真相の救命」「法的責任の明確化」「学術的な価値」といった側面もあるので、そうも言ってられないでしょうね。

 

・関連書籍

沈没船が教える世界史 (メディアファクトリー新書)

沈没船が教える世界史 (メディアファクトリー新書)

 

 

 

参考サイト

 "10 Sunken Ships With Unusual Stories To Tell" LISTVERSE