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「カンボジア暗黒時代」アンコール王朝崩壊後の歴史

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 タイとベトナムの緩衝国となったカンボジア

カンボジアの歴史と言ってすぐに思いつくのが、「アンコール王朝」と「ポル・ポト」だと思います。

前者はカンボジアの栄光の時代で、後者は悲劇の時代という点で、人々の関心を惹きつけてやみませんが、その他のカンボジアの歴史はあまり日が当らない傾向にあります。

15世紀から19世紀までのクメール王朝は、国家の基盤を農業から交易に移し、豊かな資源を背景に再度国力を広げようとしますが、内乱や分裂で国内がまとまらず、また東から迫るベトナムと西から迫るタイの間に挟まれてしまいます。

今回はカンボジアの「暗黒時代」の歴史のまとめです。

 

 

1. アンコールワットの放棄

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 アンコール王朝は現在のシェムリアップ周辺に栄えた王権です。

アンコール王権は9世紀頃から大規模な水利インフラの開発に乗り出し、開発により稲田を拡張し人口を拡大し、増えた人口を食わせるためにまた開発を行い稲田を広げ、という形で拡張。アンコール王都は最盛期には約60万人ほどの人口を抱える一大都市でした。

「現人神」である アンコールの王は民や周辺部族を従えるために、この世に「神の世界」を実現する必要があり、壮麗な寺院や王宮が次々と建設されていきました。

 

しかし、12世紀頃から水利開発と稲田の拡張に限界が生じ始め、また拡張しすぎた水利インフラのメンテナンスが追いつかなくなり、遺棄される稲田が相次ぐようになります。

米の生産高は坂を転がるように落ちていき、人々は次々とアンコール平原から逃げていく。また北と西からタイ族の圧迫が強まるようになり、1431年ごろにはアンコール王都は廃墟となり、王族は南東の地に逃れました。

 

アンコールの発展と崩壊についてはこちらの記事をご覧ください。

reki.hatenablog.com

 

 

2. 王家分裂時代(16世紀〜17世紀)

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アンコールを放棄した王族は2つに分裂。

トンレサップ川沿岸に都を置く「ロンヴェーク=ウドン」と、メコン川東岸地帯に都を置く「スレイ・サントー」です。

 

ロンヴェーク=ウドン

「王朝年代記」によると、16世紀前半にチャン・リエチェ王がロンヴェーク王都を建設し、1549年にアユタヤ王ナレースワンの攻撃によって崩壊した後、17世紀前半にウドン王都がチェイ・チェッタ王によって建設されたとされます。

これらのロンヴェークとウドンという別の地に都が建設されたため、全く別個の王権として扱われる場合もあるようですが、両方ともトンレサップ川の川港を備え、陸路ではトンレサップ湖の南にある都市ポーサットにつながっていました。

トンレサップ湖から発する水運を基軸にした王権です。

 

スレイ・サントー

「王朝年代記」には、メコン川西岸のスレイ・サントーに都を置いた王が5人登場します。アンコールからスレイ・サントーの地にやってきて王都を開いた王がポニェ・ヤート王で、他にはスレイ・ソリヨテイ、スダチ・コーン、リエム・チューン・プレイ、ウパヨリエチ・アン・ノーンという4人の王の名前が確認できます。

1371年には明の皇帝に朝貢している記録があるため、アンコール王都が存在していた時代からスレイ・サントーは存在していた可能性があります。

1549年にロンヴェーク王権がアユタヤ王ナレースワンによって滅ぼされた後、スレイ・サントーは軍を率いてアユタヤ軍を追い出し、さらにはチャンパー(ベトナム南部)にも遠征しました。この遠征軍を派遣したのはチューン・プレイ王で、彼の配下にはマレー人の軍隊と大砲、象部隊、大砲を装備したクメール人の海軍まで存在しており、スレイ・サントーの軍はスペイン・ポルトガルと協力してラーンサーン王国(現在のラオス)に保護されていたロンヴェーク王の王子をスレイ・サントーの王位に就けました。

スレイ・サントーはメコン川西岸からメコンデルタを抜けて南シナ海に出るルートを抑えており、内陸に基盤を置きつつも海運で栄えた王権でした。

 

タイとベトナムの代理戦争

アンコール王権は農業を基盤にした組織でしたが、ロンヴェーク=ウドンもスレイ・サントーも「通商」を基盤にしていました。

クメールの王たちは農業を基盤とする内陸国から、商業を中心とする海運国へと変革しようとし、故にアンコールを棄てて東の河川地帯に遷都していきました

 

しかしながら、スレイ・サントーはクメールを統一するには至らず、17世紀前半にロンヴェーク王権がウドンに復活すると鍔迫り合いを繰り広げます。

ウドン王権はシャムと結び、それに対抗してスレイ・サントーはベトナムと結び、それぞれ争います。

しかしウパヨリエチ・アン・ノーン王が死亡すると、スレイ・サントー勢力は瓦解。メコンデルタ地帯を含む一帯はベトナムの支配下に入ることになり、メコン川を通じて南シナ海に出るルートは塞がれてしまいました

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3. 商業都市プノンペン

現在のカンボジアの首都プノンペンは、メコン川とトンレサップ川が合流する場所にあり、北西部(シャム)〜北部(ラーンサーン)〜南部(ベトナム)へのアクセスが容易で、商業地としては抜群の立地にあります。

プノンペンの町は1372年に建立されたワット・プノム寺院を起源とし、16世紀には既にカンボジアでNo1の商業都市となっていました。

 普通に考えれば、この地に都をおけば金回りはグッとよくなるはずなのですが、ロンヴェーク=ウドン王権はそれをせず、少し離れたトンレサップ川沿岸に都を置き続けました。なぜか。

それは、プノンペンが最大の商業地であると同時に、最大の防衛拠点でもあったからです。

 

メコンデルタ地帯を抑えたベトナムは、メコン川をさかのぼってトンレサップ湖付近まで勢力を広げようとするのですが、最大の難所がプノンペンでした。

プノンペンに入ろうとすると川の両岸にいくつもある要塞から雨あられと銃弾や砲弾を浴びせられました。また、「第一の橋」と「第二の橋」には巨大な鉄鎖が通されて船の侵入を防うようになっており、侵入できずに滞った船は、橋の両岸にある要塞に設置された合計53門の大砲の餌食になる設計となっていました。

逆に言えば、プノンペンを抜けられればウドン王都は為す術がない。

プノンペンが正式にカンボジアの都となったのは、フランスの植民地になって「メコン川下流から侵略者がやってこなくなって以降」のことでした。

 

 

4. シャムとベトナムの勢力争い

1757年、ウドン宮廷に内紛が起こり、アン・ヒンという男が王位に就きました。

王族の1人ウテイ・リエチエ三世は南部カンボジア沿岸ハーティエンに勢力を持っていた広東人独立勢力の親玉・鄚天賜(マック・ティエン・トゥー)の元に逃げて支援を求めました。鄚天賜は兵を挙げウドンに侵攻し、ウテイ・リエチエ三世はウドン王に就きます。

アン・ヒンの息子アン・ノーンはバンコクのシャム王タークシンの元に亡命。タークシンは大規模な軍勢を起こし、まずは海軍を率いてハーティエン勢力を壊滅させ、シャムの陸軍はトンレサップ湖南部を通ってウドンに侵入。ウテイ・リエチエ三世はベトナムに亡命しました。

すると今度はベトナム王が軍勢を率いて北上。シャム軍とアン・ノーンはウドンから撤退してコムポートに落ち着き、シャムの庇護の元で独自の勢力圏を立てました。

一方、ベトナムの庇護の元でウテイ・リエチエ三世はウドン王権に復帰しました。

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ウドン王権とコムポート王権の対立は、1775年にウテイ・リエチエ三世が引退してアン・ノーンにウドン王位を譲るまで続くのですが、シャムとベトナムの勢力争いは、1859年に最後の王アン・ドゥオンが死亡し、1863年にフランスの保護国となるまで続き、とうとうカンボジアは従属国の地位のまま近代を迎えることになるのでした。

 

 

 

まとめ

農業を基盤とする国から、通商立国への脱皮を図ったクメールの王権は、トンレサップ川とメコン川を経由し南シナ海に抜けるルートを通じて国力を高めようとしました。

しかし、その地形は2つの王権の両立を可能にし、また西と東から勢いのあるシャムとベトナムという両国から挟み撃ちにされてしまいました。

もしウドン王権とスレイ・サントー王権が協力し、メコンデルタ地帯の支配を維持していたら。

いずれはフランスの支配に入ったのかもしれませんが、まったく違う歴史の歩みを見せ、いまの東南アジアの地図もかなり違ったものになったに違いありません。

 

 

 

参考文献

 岩波講座 東南アジア史〈4〉東南アジア近世国家群の展開―18世紀 5ポスト・アンコール 北川香子

岩波講座 東南アジア史〈4〉東南アジア近世国家群の展開―18世紀

岩波講座 東南アジア史〈4〉東南アジア近世国家群の展開―18世紀

  • 作者: 池端雪浦,石沢良昭,後藤乾一,石井米雄,加納啓良
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2001/09/25
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