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【論争】渤海国は中国・朝鮮どちらに帰属するか

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Work by Gzhao

「海東の盛国」と讃えられた中世・北東アジアの国

7〜10世紀、現在のロシア極東・中国東北部・北朝鮮には渤海国が大いに栄えていました。

渤海国はその歴史的位置づけを巡って議論があります。

中国では「中国の地方史」という位置づけで語られますが、韓国では「朝鮮の王朝」と位置づけて語れています。

中国は渤海が中国史の一部でないと、東北部の分離を招きかねず譲れない。一方で韓国では渤海が中国史ということになると北朝鮮が中国の領土であることを認めることになり絶対に認められない。

「渤海国帰属論争」は現在の政治・領土論争と直結しており、互いの民族感情を刺激するセンシティブな議論です。

 

1. 論争のポイント

この論争は「渤海は中国の地方国家か、朝鮮の国家か」という点を明らかにしようとするもので、いくつか主要なポイントがあります。

  1. 初代国王・大祚榮(だいそえい)は中国化した靺鞨人か、高句麗化した靺鞨人か
  2. 渤海は中国の地方政権か、高句麗の後継国家か
  3. 渤海人とは中国の少数民族か、朝鮮人か

その他にも議論となるポイントが色々あるようですが、おおざっくり言うとこんなところです。

実際のところ、渤海国は様々な民族が入り交じった多民族国家であり、「渤海人」というのも渤海国に帰属する人々を意味するので、朝鮮人でもないし中国人でもない。そもそも現代的な国民国家の概念と物理的な領土を中世に当てはめて「渤海はどっちのものか」と白黒を付けようとすること自体が色々破綻していると思うのですが、その歴史観が領有の正当性と経済的な優位性を認めることになるし、民族の栄誉の発露になる。逆にこれに遅れをとると、他の分野でも「敵」の優位性を認めることになる。互いに必死です。

中韓の互いの言い分の前に、歴史の概要を見ていきたいと思います。

 

 

2. 渤海の成立の歴史

 

2-1. 朝鮮半島の三国時代

随末唐初の時代、朝鮮半島は新羅・百済・高句麗のいわゆる「三国時代」でした。

新羅・百済は辰韓・馬韓・弁韓の三韓の後継国家で韓族を中心にした南方農耕民族。伝説によると、新羅は斯盧(シロ)族などの12の部族の連合国家であったとされ、中央集権化された農耕部族の連合国家と考えられます。

一方で高句麗の始祖・朱蒙は北方ツングース系の濊貊(ワイハク)族の出身で、北アジアの遊牧民族の系列です。強大な軍事国家で、靺鞨人などの周辺の遊牧民族の一部も組み込んでいました。

 高句麗は随・唐の侵攻を撃退し、勢いのまま北から新羅の併合を試みた。655年、高句麗が靺鞨兵を率いて新羅に侵入。新羅は唐に救援を依頼したことで生きながらえました。一方で百済は高句麗の支援の元で新羅に侵入するも、唐と新羅の連合軍に攻められ崩壊。指導層は高句麗と倭(日本)に逃亡。

さらに唐は高句麗にも攻め入り平壌を制圧。668年に高句麗は滅亡します。

唐は都護府を置いて旧百済と旧高句麗を統治すると同時に、高句麗の遺民と高句麗の統治下にいた粟末靺鞨人・白山靺鞨人を営州や中原各地に移してしまう。

強大な高句麗の権力が無くなったことで、旧高句麗の土地は権力の空白地帯となり、新羅の北侵や靺鞨の南下の場となっていきます。

 

2-2. 渤海の成立

営州という土地は唐の東北部統治の要所であり、靺鞨・契丹・高句麗・突厥など多民族が混在する地域でした。696年、契丹の首長の孫・李尽忠が反唐の反乱を起こし、中国本土に攻め入り唐から分離する動きを見せました。

則天武后はこれに対し軍隊を派遣し討伐させ、翌年には鎮圧されてしまう。

靺鞨人と一部の高句麗の遺民はこの「営州の乱」に参加していましたが、唐は彼らを懐柔し靺鞨首長・乞四比羽(きつしひう)を許国公に任じ、粟末靺鞨の首領・大舎利乞乞仲象(だいしゃりきつきつちゅうしょう)を震国公に任じた。

しかし彼らもまた唐への帰順を拒否し、靺鞨人と高句麗遺民を引き連れて東へと逃れました。則天武后は彼らを追撃し、乞乞仲象は戦死するも、彼の息子・大祚榮は東進を続け、唐の追撃軍を撃退しながら実力を高め、とうとう天門嶺の戦いで唐に大勝。

大祚榮は太白山東北の牡丹江上流に落ち着き、「震国」の樹立を宣言しました。

しばらく震国と唐の緊張関係は続きますが、712年に玄宗が皇帝に就任すると方針が変化。震国は713年に唐に冊封し、大祚榮は「渤海郡王」に任ぜられ、国号を「渤海」と改めました。

 

以上がざっくりとした渤海の成り立ちなのですが、これだけでも中国と韓国・北朝鮮では解釈を巡って様々な論争があります。

 

 

3. 中国の立場

中国の歴史学者の立場を一言でまとめると、「渤海国は中国化した靺鞨人の国であるため、中国の地方政権である」というもの。

 

まず「渤海は靺鞨人の国」という点ですが、遼東半島にある石碑「鴻臚井欄題記」には唐の冊封使・崔忻(さいきん)は渤海に勅命を奉じる際、「宣労靺鞨使」の身分で渤海を訪れ大祚榮を冊封する、と記載されています。

そのため、渤海は靺鞨人の国であることは疑いの余地がない、としています。

 

次に「中国化した靺鞨人」という点ですが、大祚榮の父親は大舎利乞乞仲象という契丹風の姓名を使っていましたが、息子は氏名を「大」としました。これは漢の風習に従ったためであるし、そもそも国号を靺鞨ではなく「震」としたのは中国の伝統・風習に従ったものであり、故に渤海の靺鞨人が中国化しているのは明白である、というわけです。

 

最後に「中国化している故に中国の地方政権である」というのは、これは華夷秩序的な歴史観で、冊封体制を受け入れた国は中国の支配を受け入れたということを意味します。

渤海は大祚榮以来、唐との冊封体制を堅持して朝貢を欠かさず、留学生を派遣して唐の先進的な制度や学問を学ばせて取り入れていました。

中国の制度や文化を受け入れ唐の権力の傘下にいた以上、渤海は中国の地方政権であり、故に中華の後継国家である中華人民共和国が支配権を持つ、というのが中国の論理です。

中国の「歴史研究」はさらに前進しており、「高句麗はツングース系民族の国家であり、ツングース系民族は中華の周辺民族であるため、高句麗も中国の地方国家である」という主張もなされています。

 

これらの中国の主張は「加減」がどこにあるのかを定義するのが非常に困難です。

冊封体制を受け入れた国が中国の地方政権であるとするならば、渤海はおろか、朝鮮半島も琉球、タイ、ベトナム、日本も全て中国の地方国家ということになり、これらの国の歴史は全て中国史の一部ということになります。

現在国家を形成している地域は独自に国家史を持っているわけなので、「お前たちの国の歴史はオレたちの国の歴史の一部だ」と言っているに等しく、到底受け入れられるわけがない。

結局自分の国の領域の正当性を認めようとするのが落とし所なんですが、例えばツングース系民族が中国東北部と朝鮮半島北部の両方に広がっていたという事実があると、整合性を取るために、ではツングース系民族がいた場所は全て中国の一部とする、というようなことになってしまう。

以下に記載する韓国・北朝鮮の立場でも、やはり同じようなことをやらかしています。

 

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3. 韓国・北朝鮮の立場

韓国政府が運用する広報サイトの記述が、韓国の立場をキレイにまとめています。

高句麗が滅亡した後、高句麗流民の唐への抵抗は続きました。698年大祚栄(テ・ジョヨン)など高句麗の流民は靺鞨(マルガル)族と一緒に満州吉林省東牟山近くに渤海を建国しました。

渤海の建国により、韓半島と満州地域は南の新羅と北の渤海が対立する形勢となりました。渤海は領域を拡張し、昔の高句麗の領土をほとんど回復しました。武王の時代は北満州一帯を掌握し、文王の時代には体制を整備して755年頃に首都を上京(黒龍江省寧安県一帯)に移しました。

渤海は、高句麗を継承したという誇りを持ち、日本に送った文書にも高句麗王を意味する「高麗王」と表現しました。渤海は海東盛国(ヘドンソングク)と呼ばれるほど繁栄しましたが、白頭山(ペクトゥサン)の火山噴火という自然災害と契丹(コラン)の侵略を受け、926年に滅亡しました。

引用元:南北国時代:統一新羅と渤海 KOREA.NET

 

大祚榮(韓国ではテ・ジョヨンと呼ばれる)は高句麗の人で、靺鞨人は高句麗の支配下にあり、高句麗の遺民が主導して渤海を建国したのであり、渤海は高句麗の後継国家である、というのがその立場です。

これは韓国・北朝鮮の歴史では常識で、国定教科書にもそう書かれているし、韓国語のwikipediaもそのような記載になっています。

渤海(渤海、698年〜926年)は、高句麗を継承して大祚栄が建国した国である。渤海の建国によって、韓半島の南北国時代が開かれた。(略)渤海は強い軍事力と発展した文化を持っており、領土を拡張して、昔の高句麗の領土をほとんど占めた。(略)日本に送った国書には国号を高麗とし、日本でも渤海を高麗と呼ぶこともあった。

발해 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전

 

 

韓国が「渤海=高句麗」とみなす根拠の文献がいくつかあります。

「旧唐書」の記述の中には「渤海靺鞨の大祚榮は高麗の別種」と記載があり、「新唐書」には「渤海は、本粟末靺鞨の高麗に付く者にして、姓は大氏」とあり、これを根拠にして粟末靺鞨は高句麗の一部族であり、大祚栄は高句麗人とみなされています。

この「別種」とか「付く者」という記述をどう解釈するかによってもまたややこしい議論があるのですが、とにかく粟末靺鞨と王族大祚榮が高句麗の影響下にあったということは渤海は高句麗の後継とみなすべきであるとしています。

 

「渤海は高句麗を継承したという誇りを持ち」という箇所は、渤海が日本の聖武天皇に宛てた書がその根拠になっています。

「武芸、忝(かたじけ)なくも列国に当たりて、濫(すべ)ての諸藩を惣(す)べ、高麗の旧居を復して、扶余の遣俗を有(たも)てり」

これは727年に渤海と日本との通交が初めて始まった時の書で、当時は渤海と唐との関係が悪化したため、将来的な軍事同盟を見越して日本との友好関係を求めていました。

これをきっかけに渤海と日本の修交は継続されるのですが、日本は渤海を高句麗の後継国家であるとみなし、渤海もそのように振る舞っていました。

普通に考えれば、外交的に有利に展開するためにかつての大国の威を借りたというのが正確なところだと思うのですが、韓国・北朝鮮ではこれを根拠にして、渤海の人々も自分たちは高句麗の末裔だと認識していたとされています。

 

韓国語版wikipediaには「韓半島の南北国時代が開かれた」とありますが、この南北国時代というのがまた議論があります。

簡単に言うと「北の渤海」と「南の新羅」が半島の覇権を巡って争った時代、という意味なのですが、「南北国時代」という概念自体が韓国以外では受け入れられていません。

南北国という以上、そこに「分断されている」というニュアンスが含まれています。

ということは「元々は統一されていた / 統一されるべき」土地であるという考えになり、朝鮮民族という一つの民族の支配が及ぶべき地域、という考えになります。

しかしながら、「南北国時代」以前に朝鮮半島や中国東北部が一つの政権で統一された歴史はなく、現代の価値観で無理やり定義した概念に近いものです。

しかしこの「南北国」という概念を証明しようという試みはあり、例えば北朝鮮の歴史家・朴時亨(パク・シヒョン)は、1962年の著作「渤海史研究のために」の中で、新羅時代にすでに「南北朝」という概念があったという説を主張。「南朝」と「北朝」は「まさしく統一を実現しようとする同族の全体の一部である」とまで主張しています。

しかし「新羅と渤海の両方が同一の帰属意識を持っていた」根拠は乏しく、願望の域を出ないものです。

  

 

 

まとめ

初期の震国は高句麗遺民と一部の靺鞨人の連合国家で、リーダーが高句麗の影響下にあった粟末靺鞨の人物でありました。

国を建てた後は、強大な唐を敵に回さずに国家を発展させるために冊封を受け入れ、渤海となった後は徐々に領土も拡大していったため、次第に靺鞨人や契丹人など他の民族の割合が増えていき、より多民族国家になっていった。

国家発展のために積極的に唐の制度や文化を取り入れ、対外的には「高句麗の後継」であると言って国の正当性をアピールした。

利害関係のない第三者的立場で見るとこういうことな気がするのですが、現代的価値観で白か黒かでやっつけようとするからややこしくなる。

両者に対し 「どっちでもなかったんだから、もう言い争いやめようよ」と言いたいところではあるのですが、日本は日本で「琉球帰属問題」で中国に同じようなことをやられているので、他人事ではまったくありません。

 

 

参考文献

「渤海王国の社会と国家」姜成山

「東アジア研究の問題点と新思考」韓東育

「渤海史」朱国忱,魏国忠,浜田耕策 東方書店

渤海史

渤海史

 

 

韓国ドラマ「大祚栄(テ・ジョヨン)」では、当然ですが高句麗の後継国家・渤海という歴史認識のもと、大祚榮が不遇の身から大国を起こす一大スペクタクル・ドラマとなっています。

大祚榮 テジョヨン DVD-BOX 1

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