歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

世界史で有名な人物の「決闘(デュエル)」

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 世界史上重要(&あまり重要でない)決闘の数々

どの時代・社会でもおおよその殺人は罪になりますが、前近代社会やアウトローの世界では、「果し合い」や「決闘」をした人物はむしろ社会から称賛され、罪にならない場合があったようです。

父親の無念を晴らすため息子が一騎打ちで仇敵を倒す、なんてお話が江戸時代には好まれますが、以前にはそのような慣習はあったものの、既に江戸時代にはそのような行為がお上から禁止されていたことの証左だと思います。

日本だと、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が有名ですが、世界史ではどのような一騎打ちがあったのかを見ていきたいと思います。

 

 

1. スコットランド王ロバート1世 vs ヘンリー・ド・ブーン

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 スコットランド軍を勝利に導いた王の一騎打ち

1314年6月24日、スコットランド王ロバート1世の軍と、イングランド王エドワード2世の軍がスコットランド南方の平原で衝突しました。バノックバーンの戦いです。

イングランド軍の主軸は弓兵と重騎兵で、スコットランド軍も騎兵はいましたが歩兵が主体で士気も低い。

戦闘の初日、ロバート1世は自ら馬を率いてイングランド重騎兵団と衝突しました。イングランド重騎兵団の戦士ヘンリー・ド・ブーンは、ロバート1世を確認すると一騎打ちを呼び掛けた。これに応えるロバート1世。両軍の兵士が見守る中、ロバート1世はヘンリー・ド・ブーンのランスの突きをかわし、斧を脳天から叩き付けた!

王自らの決闘にスコットランド兵は大いに士気を高め、翌朝の総攻撃でイングランド兵を壊滅させたのでした。

 

 

2. マルケルス vs ガエサタエ族長ウィリドマルス

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ローマ最高勲章を受賞した猛将の一騎打ち 

マルクス・クラウディウス・マルケルスは共和制ローマの軍人・政治家で、第二次ポエニ戦争の際にはハンニバル相手に果敢に攻撃を仕掛け、持久戦を展開した執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムスが「ローマの盾」と呼ばれたのに対し、「ローマの剣」と呼ばれました。

自ら先陣を切って敵に突撃する猛将で、最も有名なのが紀元前222年のガリア人の一派ガエサタエ族との戦闘。

戦闘中、騎上のマルケルスは派手な鎧に身を包んだ敵王ウィリドマルスを見つけた。ウィルドマリスもマルケルスを認識し、互いに槍を持って衝突。マルケルスは一太刀でウィルドマリスを落馬させ、次いで2~3太刀を浴びせて絶命させました。

この決闘による勝利はローマの人々を熱狂させ、マルケルスは最高勲章である「スポリア・オピーマ」を得たのでした。このスポリア・オピーマは伝説を含めてもローマで授与されたのはわずか3名であり、故にマルケルスは「ローマ最高の軍人」となったのでした。

 

 

3.クラッスス・フルーギ vs バスタナーエ族デルド王

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 蛮族王を決闘で破った金満一家出身の軍人

「クラッスス・フルーギ」とは、第一回三頭政治の一角マルクス・リキニウス・クラッススの孫で、彼の名もマルクス・リキニウス・クラッススと言いややこしいので「クラッスス・フルーギ(Crassus Frugi)」と呼ばれます。

クラッスス一家は金満一家で、祖父クラッススは金に物を言わせて軍をかき集めて勝利をつかむような男でしたが、クラッスス・フルーギは勇敢で軍略にも明るい男で、時の皇帝アウグストゥスのお気に入りでした。

 紀元前29年、マケドニアに派遣されたクラッスス・フルーギは、ドナウ川を渡りバスターナエ族(スキタイ、ダキア、ゲルマンの混合部族)と衝突。巧みな戦術でバスターナエの戦士たちを後退させ、彼らを一カ所に集めることに成功。戦闘にも勝利し、彼自らデルド王を一騎打ちの末倒しました。

ローマの伝統によって、「スポリア・オピーマ」の資格を得ますが、皇帝アウグストゥスは彼が皇帝に比する権力を持つことを恐れてスポリア・オピーマ授与を拒否しました。

 

※追記
ここで述べているクラッススは、Marcus Licinius Crassus FrugiまたはMarcus Licinius Crassus Youngと言われるので、当初は「若きクラッスス」と書いてましたが、父親もまた「若きクラッスス」と言われていました。うっかりしてました。ややこしいので「Frugi」に直しました。

 

 

 

4. キエフ大公ムスチラフ1世 vs チェルケス部族長レデジャー

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戦争の勝敗を決める「ボス同士のレスリング勝負」 

キエフ大公ムスチラフ1世の父親は、ルーシにキリスト教を持ち込んだウラジミール一世。ウラジミール1世はルーシの領土を広げ政治的にも影響力を高めた男ですが、どちらかというと戦士というより「政治家」タイプ。一方で息子ムスチラフ1世は、敵軍に先頭切って突進した祖父スヴャトスラフ1世に似た勇猛果敢な戦士でした。

彼の蛮勇エピソードで最も有名なものが、チュルケス部族長レデジャーとの一騎打ち対決。ルーシ軍とチュルケス部族は長年に渡って戦い、お互い一歩も譲らず、犠牲者が増えるのみの泥沼の戦いとなっていました。そこで敵将レデジャーがムスチラフ1世に提案したのが「頭領同士の決闘で、この戦いの決着をつけようじゃないか」というもの。これを受諾したムスチラフ1世。

二人はレスリングで決闘を行いますが、これも壮絶な戦いでなかなか決着がつかず、数時間にも及んだそうです。ムスチラフ1世は疲れて意識が朦朧とし、あやうく敗れかけるところでしたが、伝説によると「聖母マリアが彼を手助けし」彼を勝利に導いた。

対決に勝利したムスチラフ1世は、レデジャーの首を切り、聖母マリアに捧げたのだそうです。

いやー、なんかいいですね、野蛮で。

 

 

5. ベン・ジョンソン vs ガブリエル・スペンサー(イングランド)

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 劇作家と俳優の真剣勝負

 ベン・ジョンソンは17世紀イングランドの劇作家・詩人。

ジェームズ1世時代のイングランドの劇作家で、シェイクスピアに次いで代表的な人物です。シェイクスピアとは友人同士で、彼の死に際し代表して追悼文を書いています。

 さて彼は1598年9月22日に、ガブリエル・スペンサーという名の20歳の同年代の俳優相手に剣で決闘を挑み、彼を刺殺しています。なぜ彼らが決闘を行ったのかの理由は一切不明

一説によると、殺されたスペンサーが長年決闘に憧れて長剣を保有していて、ジョンソンがその相手をしてあげたということなのですが、何も本当に殺すことはないのに…。

なおジョンソンは逮捕され死刑を宣告されますが、聖職者の恩恵を懇願してまんまと脱出。その後は創作活動を通じて名を挙げて、有名な作家先生となりました。

 

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6. アイアン・ハーマン vs ステンヴォルドの男(フランス)

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 伯爵殺しの判決を決めた騎士の決闘

1127年3月2日、フランドル伯シャルル1世が何者かによって殺害されました。

この殺害劇には複数の人物が関わっており、「ステンヴォルドの男」としか名前が残っていない男も容疑が疑われましたが、彼は関与を拒否しました。

アイアン・ハーマンというあだ名で知られる騎士は男の関与を信じて疑いませんが、やった、やってない、で押し問答が続き決着がつかない。

結局、男の有罪・無罪の判決は「アイアン・ハーマンと男の対決」で決定することに決まりました。

2人は最初は馬上で戦いましたが、両馬とも戦闘中に倒され徒士での戦いとなり、剣と盾で戦うも壮絶な打ち合いとなり、剣は折れ、盾は曲がり、使い物にならなくなり最後は殴り合いに。

結局わずかに体力が勝ったハーマンが男を投げ飛ばし勝負がついた。この勝負の結果男は有罪になり、すぐに絞首刑で殺されました。

今では考えられない判決ですが、中世ではこういう決着の仕方は結構あったみたいですね。

 

 

7. ポーランド王ヴワディスワフ2世 vs 黄金の甲冑の騎士

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 ポーランド・リトアニア軍の勝利に寄与した王の一騎打ち

東への拡大を続けるドイツ騎士団の脅威に対抗するため、1385年ポーランド王国とリトアニア大公国は連合王国ヤゲウォ朝を成立させました。

これに対しドイツ騎士団総長フォン・ユンギンゲンはポーランド・リトアニアを打ち砕くために大軍を派遣。1410年7月15日に両軍総勢5万5000名が激突したグルンヴァルドの戦い(タンネンベルグの戦い)が勃発しました。

開戦当初はドイツ騎士団が有利で、リトアニア軍は崩壊し、ポーランド軍も統率が乱れ、ポーランド王ヴワディスワフ2世の本陣近くにまでドイツ騎士団が近づいていました。王の親衛隊は慌てて王の身辺を囲う。

と、ここでドイツ騎士団の軍勢の中から、黄金の甲冑を身にまとった騎士が現れて槍を構えて挑発した。ヴワディスワフ2世はこの挑発に応じる形で、突如として馬を駆け出してしまいました。

衝突寸前で王の秘書官が何とか追いつき、折れた槍の先端で騎士の脇腹を払い、落馬させました。王は落馬した騎士に一太刀を浴びせました。

この対決を固唾をのんで見守っていたポーランド兵たちは大いに鼓舞され必死で戦い、とうとう精強なドイツ騎士団を倒してしまったのでした。

 

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8.  アユタヤ王ナレスワン vs ビルマ皇太子ミンチット・スラ

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Photo Fotograf / Photographer: Heinrich Damm

 アユタヤ朝の復興を果たした偉大な王の一騎打ち勝負

ナレスワンの父はピサヌロークの知事でしたがビルマ王に敗れて臣下となり、幼いナレスワンはビルマで育ちました。

1569年にアユタヤ朝がビルマに征服されると、ナレスワンの父が傀儡王となります。アユタヤに戻ったナレスワンは、ビルマで学んだ格闘術でアユタヤ兵を訓練し、来るべき戦いに備えさせました。これがムエタイの起源だと言われています。

機が熟したと見たナレスワンはアユタヤの独立を宣言。アユタヤ軍は鎮圧にやってきたビルマ軍をことごとく退けていきます。独立戦争の中で最も重要な戦いがノーンサーラーイの戦い、通称「象の戦い」。

ビルマ軍を指揮するのは王の息子で皇太子のミンチット・スラ。象に乗る彼の姿を確認したナレスワンは、自身も武器を携えて象に飛び乗り、ミンチット・スラに戦いを挑みました。ミンチット・スラの攻撃はナレスワンによって防がれ、次の打撃でナレスワンの一撃はミンチット・スラの肩に命中。ミンチット・スラは死亡しました。

ビルマ軍は撤退し、アユタヤ朝は独立を回復したのでした。

今でもナレスワン王はタイ人に絶大な人気があり、毎年1月18日は「象の戦いの日(วันยุทธหัตถี)」と言われ政府が指定する記念日になっています。

 

ナレスワン王の活躍を描いたタイのドラマ「キング・ナレスワン」でも勿論描かれ、クライマックスのシーンがこの戦いです。

www.youtube.com

 

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まとめ

「白か黒か」がはっきりする 一対一の対決は熱くなるし、その明瞭さ故に何か神託めいた「神聖さ」を感じさせるのでしょう。

特に王自らが対決して勝ったら、その勝利は神のご意思であり、万事すべてが認められたような感覚があったのかもしれません。決闘によって有罪か無罪かを決めてしまう、というのも、結果がはっきり分かるという実利的な面もあるし、その勝敗に神の意志が宿るという考えがきっとあったに違いありません。

 

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参考サイト

"10 Intriguing Cases Of Single Combat" LISTVERSE

 

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