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【消滅国家】20世紀前半にシベリアに存在した超短命国家

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夢や野望・絶望が渦巻く辺境の地

現在ロシア政府は国民へシベリア〜ロシア極東への移住を奨励しているそうです。

不安定なヨーロッパとの結びつきに注力するよりも、東アジア方面に資本やリソースを割いたほうが、今後ますます世界経済の中心となっていくことを考えると良いという判断のようです。それは極めて合理的な考えではあるなと思います。

昔からシベリアやロシア極東は、中央の政治犯や極悪犯罪者、ヤクザ者が追放されるような場所でしたが、一方で中央の目があまり届かないので政府転覆を狙う野心家が刀を研ぐような夢の土地でもありました。

特にロシア革命勃発後は、旧政府関係者や分離主義者、少数民族が列強の支援を受けて、雨後の筍のようにシベリアに国家が出来上がっていきました。しかしいずれも赤軍の攻撃を受けて短命に終わっています。今回はそんな短命国家をピックアップします。

 

 

1. イデル=ウラル国(1917年12月〜1918年12月)

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タタールを中心とする非ロシア系民族の連合国家

モスクワから東へ800キロほど行ったボルガ川の上流付近の都市カザン周辺は、かつてカザン・ハン国という名で16世紀まで存在していたタタール人の独立国家でした。

16世紀にロシア人に征服されて以降はロシア帝国の一部となっていましたが、ロシア革命勃発後にかつてのタタール人の国を復活させようと、チュヴァシ人、ウドムルト人、マリ人などのタタール系民族の代表が集まり、1917年12月にタタール民族連合国家のイデル=ウラル国の建国を宣言しました。

4ヶ月後、すぐに赤軍によって首都カザンが陥落しボリシェヴィキによって占領させられ、一時期はチェコ軍団によって回復させられるも、1918年末には赤軍によってイデル=ウラルの指導者と軍隊は追放され崩壊しました。わずか1年あまりしか持たなかった超短命の政権でした。

現在でも独立を志向する動きがあり、ソ連崩壊後にはCISに加入しようとしましたが叶わず、現在はロシア連邦内の自治共和国・タタールスタン共和国となっています。

 

 

2. 臨時全ロシア政府(1918年9月〜1920年2月)

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旧ロシア政府の後継的亡命政権

二月革命によりロシア帝国は打倒され、ケレンスキーら旧政府関係者らは1917年9月にペトログラードに集結しボリシェヴィキ政権に対抗し「ロシア共和国(ロシア臨時政府)」を樹立しました。しかし十月革命により臨時政府も解体され、政府関係者らは逮捕されたり亡命したりとバラバラに散らばってしまいました。

その後1918年9月に、可能な限りの旧政府関係者や反共主義政党が集まりシベリアのウファに全ロシアからボリシェヴィキを排除することを目的に「臨時全ロシア政府」が樹立されました。(首都は後にオムスクに移動)

しかし2ヶ月後、政府はイギリスの支援を受けた陸海大臣アレクサンドル・コルチャークのクーデターを受け、幹部や社会民主党党員は逮捕されてしまいます。

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これ以降、全ロシア臨時政府は半ばイギリスの傀儡となったコルチャークの独裁政権となり、コルチャークは列強からの支援を受けて白軍を率いて戦いますが、フランスや日本から次第に支援を受けられなくなり、次第に赤軍に押され始め東に撤退。アムール、オムスク、イルクーツクが陥落。赤軍に捕らえられた独裁者コルチャークと首相のヴィクトル・ぺぺリャーエフはすぐに銃殺され、全ロシア臨時政府も同時に崩壊しました。

 

 

3. 極東共和国(1920年4月〜1922年11月)

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Work by NuclearVacuum

シベリア出兵に対抗するためのソ連の緩衝国家

1918年8月、日本を中心とする国際連合軍がボリシェヴィキ政府の打倒を狙い、いわゆる「シベリア出兵」が開始されました。

日本軍は反ボリシェヴィキを掲げるアレクサンドル・コルチャークの白軍を支援し、北サハリンやウラジオストクを中心とした海岸部分を占領しました。

ソヴィエト政府はこれに対し、日本軍との直接の対決を避けるために、シベリア〜ロシア極東地域に「対シベリア出兵」用の緩衝国家の建設を企画しました。

1920年4月6日、ヴェルフネウディンスク(現在はブリヤート共和国の首都ウラン・ウデ)を首都に、民主主義者のクラスノシチョーコフを首班に迎い入れて極東共和国が樹立されました。

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建前上は極東共和国はブルジョワ民主主義の国家であり、ボリシェヴィキ政権打倒を目指す日本軍が対決する大義名分を失わせる狙いもありましたが、実際のところその運用はボリシェヴィキによって担われていました。

その後赤軍の攻勢によって白軍が崩壊し、日本軍にも厭戦の機運が高まり、1922年10月に日本軍が撤兵すると極東共和国はその存在意義を失ったため、翌11月にソ連政府に統合されました。

 

 

4. ブリヤート=モンゴル国(1917年4月〜1921年4月)

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反革命勢力の武力を頼りにした短命政権

ブリヤート人はバイカル湖周辺に居住するモンゴル系民族で、内モンゴルや外モンゴルに居住する人々と同様に、かつては遊牧を中心にして生計を立てていました。元々バイカル湖周辺はモンゴル民族発祥地とされており、その先祖代々の土地に住む人々です。

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Image from "The Bow - Weapon of the Ancient Buryat People"

1917年にロシア革命が起こると、4月25日にブリヤート国家主義者のミハイル・ボグダノフを中心にブリヤート=モンゴル国の建国が宣言されました。

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この後ろ盾になったのはアレクサンドル・コルチャークの白軍とチェコ軍団で、1918年ごろまでボリシェヴィキはシベリア東方や極東にまでなかなか手を出せなかったこともあり、ボグダノフはブリヤート国家の建設を急ぎましたが、赤軍の攻勢の前に白軍が後退したことでブリヤート=モンゴルもボリシェヴィキに飲み込まれ、1920年にはボグダノフを始め主だった連中は追放されました。その後ボリシェヴィキ支配下で1年程度続きますが、後に建国される極東共和国に併合され、1921年4月6日に正式に滅亡しました。

現在ではブリヤート共和国という名前で、ロシア連邦内の自治共和国となっています。

 

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5. シベリア共和国(1918年1月〜1918年9月)

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わずか8ヶ月で崩壊したシベリア分離主義者の夢

シベリアをロシア帝国から分離させ、アメリカ合衆国のような各民族が自治を行う連邦国家を作ろうとする試みは、19世紀の時代からロシアに存在していました。

革命後、シベリア分離主義者たちはピョートル・ヴォログダを中心に結集して1917年12月に選挙を行い、議員を選出した上で1918年1月にオムスクを首都にシベリア共和国の独立を宣言しました。

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彼らが主張するシベリア共和国の領土は、西はウラル山脈から東は太平洋側までの広大な地域。確かにウラル山脈以東は歴史的にはシベリアとみなされてきましたが、これらを全て自分の国としてしまったのもなかなかの根性です。

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シベリア共和国は約37,600名の兵員を誇る強力な軍団を有しており、白軍と協力して赤軍と戦いますが、すぐにウラルを超えられ劣勢に陥り、最終的に政権は全ロシア臨時政府に統合され、シベリア軍団もコルチャークの白軍に統合されました。

 

 

6. ザバイカル共和国(1918年8月〜1920年11月)

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東バイカルにあった日本の傀儡政権

 1918年から赤軍の攻勢が本格化してシベリア共和国が崩壊しかかり、ロシア臨時政府の残党がシベリアに集結し始めていた頃、日本軍はコサックのグレゴリー・セミョーノフという男を支援し、トランスバイカル(東バイカル)にザバイカル共和国という反革命政権を樹立させました。

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この傀儡政権の発足は日本のシベリア出兵と連動しており、セミョーノフは配下のコサック部隊を率いて赤軍に対するゲリラ活動やテロによる攻撃を行い前線を混乱させ、日本軍のシベリア進出を向かい入れる狙いがありました。

その後、全ロシア臨時政府が樹立し後にコルチャークが全権を取得すると、セミョーノフはコルチャークからザバイカルの統治権限を受けますが、イギリスの支援を受けていたコルチャークと日本の支援を受けていたセミョーノフは互いの思惑もあり、互いに協力し合うことができませんでした。

その後赤軍の攻勢は続き、1920年4月にボリシェヴィキによって極東共和国が設立され、 1920年10月に日本軍がトランスバイカルから撤兵すると、11月に首都チタは赤軍による攻撃を受けて陥落。極東共和国に併合されました。

  

 

7. ウクライナ極東共和国(1917年4月〜1922年)

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ロシア極東に企画されたウクライナ人の国家

20世紀初頭、ロシア極東部にはウクライナから大量のウクライナ人が農業移民として送り込まれており、彼らは自分たちウクライナ人が住む極東地域のことを「グリーン・ウクライナ」と呼びました。1923年時点で約30万人のウクライナ人が極東地域に住んでいたそうです。

1917年の革命勃発後、極東のウクライナ人は数度会議を開き、グリーン・ウクライナをウクライナ国の一部として併合させることを宣言しました。本国ウクライナはドイツの支援を受けて独立を果たしており、領土は遠く離れているものの、キエフ政府により統治される土地と定めました。

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後に第一次世界大戦の敗北でドイツがウクライナより撤退し、その後ソヴィエト政府と統合されると、グリーン・ウクライナは1920年に国名を「極東ウクライナ共和国」として独立を宣言しました。しかしすぐにソヴィエト政府による介入を受け、1922年に崩壊。極東共和国に併合されました。

 

 

 

まとめ

少数民族や分離主義者、旧政権幹部が、列強の支援を受けてシベリアを拠点に攻勢をかけようとしますが、圧倒的な赤軍の前にブルドーザーで轢かれるように崩壊していったような感じです。

 赤軍の物量パワー、関係者のいがみあい、列強の反目という色んな要因はありますが、何というか、小賢しい陰謀も策略も、全て広大なシベリアの大地の中に飲み込まれていったような感があります。

かつて多くの人の夢を朽ちさせたシベリアは、ロシア政府が夢見る「黄金の土地」に生まれ変わることができるのでしょうか。それとも…。

 

 

参考文献

Of Khans and Kremlins: Tatarstan and the Future of Ethno-federalism in Russia

 

参考サイト

"Far Eastern Republic (1920 – 1922)" DEAD COUNTRY STAMPS AND BANKNOTES

"Provisional Government in Siberia, under Admiral Kolchak (1918 – 1919)"DEAD COUNTRY STAMPS AND BANKNOTES

"History of Buryatia (Ar Mongol)"

Государство Бурят-Монголия — Википедия

Временное Всероссийское правительство — Википедия

Сибирская республика — Википедия

Забайкальская белая государственность — Википедия

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