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ベトナムの英雄たちの救国の歴史(前編)

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Credit: “Trận Bạch Đằng” của Nguyễn Cao Thượng

ベトナムの苛烈な抵抗の歴史

 ベトナムは今やASEANの経済発展の象徴的な存在。

勤勉で高い教育水準の国民が約1億人おり、中間層が著しく台頭。ベトナム共産党一党独裁の社会主義国ではありますが、硬直したイデオロギー主義は採らずに市場主義を容認し製造業・サービス業・クリエイティブ業も発展を続けています。

 現在は平和で安定的な国ですが、歴史上ベトナムは様々な外敵と戦い続けた血なまぐさい歴史を持ちます。

歴代の中国王朝、モンゴル、チャンパー、ラオ。

近代に入るとフランス、タイ。反日武装闘争、対フランス独立戦争、そしてアメリカとの総力戦。

 その歴史の中で、ベトナムは様々な愛国者・殉国者・烈男烈女を排出してきました。今回ご紹介する「ベトナム救国の英雄」たちは、廟が作られ祈祷の対象になったり、町の通りの名前になっていたりと、ベトナムでは日々の生活の中に溶け込んでいます。

ということで前後半でベトナムの英雄たちを通じて、ベトナムの抵抗の歩みを追っていく回です。

 

 

1. ハイ・バー・チュン(微姉妹)

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中国のベトナム支配の始まり

古来から中国南部からベトナム北部にかけては百越と呼ばれる地域で、現在のベトナムにつながる歴史は半中国化した南方諸民族の自立運動からスタートします。

秦の始皇帝が紀元前221年中国を統一し、越の国があった南方地域は任囂(ナムガウ)と趙佗(チョウ・タ)という漢人が統治を行いました。

ところが始皇帝の死後全土が混乱し始めると趙佗は中央政府に反逆し、統治している地域を「南越(ナムベト)王国」として独立させ自ら王位に就いてしまいました。

中国では紀元前202年に漢が成立しますが、漢でもカリスマ的な趙佗が率い結束力の高い南越を簡単に攻略できませんでした。趙佗の死後に徐々に軍事攻略が進んでいき、紀元前111年に97年で南越は滅びました。以降、ベトナムは1000年間に渡る中国の支配の時代が始まります

 

ベトナム土着勢力の反乱、ハイ・バー・チュンの乱

それまでベトナムでは伝統的な村落共同体において自治制度を維持しており、その上に覆いかぶさるように王国が存在しました。

ところが漢の支配下に入った後、全ての人民・土地は皇帝の所有物となり、その行政執行官として中央政府から派遣された官僚によって統治されるようになりました。

漢人の官僚は遠く離れた赴任地で、中央に戻った後に活用する「出世の資本金」とすべく私腹をなるべく肥やそうと暴利を貪った。高い人頭税と土地税に加え、南方産の珍しい産物の拠出が義務付けられ、さらに運河や道路の建設に駆り出された。

ベトナム人は横暴な漢の官僚に対する反抗を募らせ、大規模な反乱が紀元40年に発生しました。それがハイ・バー・チュンの乱です。

ハイ・バー・チュンとは「2人のチュン夫人」という意味。姉妹はメリン県の地方の豪族の娘で、姉のチュン・チャクはソンタイ県の豪族ティ・サックの妻でした。ところが交趾太守・蘇定(ト・デン)は政治をほしいままにしてティ・サックを殺してしまったため、怒ったチュン・チャクは妹のチュン・ニと共に兵を挙げました

姉妹の反乱に呼応して65の地域の豪族が一斉に蜂起して兵を進め、驚いた蘇定は広東に逃亡。反乱軍は全土を制圧しチュン・チャクを「微王」として王に任じて独立を宣言しました。

当時のベトナムは母系社会で豪族たちは女性が多く、漢がやってきたことでこれまで自分たちが支配していた税金を奪われたことで落ちぶれていました。そこでチュン姉妹を中心に漢を追い出すことで、これまでの既得権益の奪い返しを試みたわけです。

漢の光武帝は反乱を鎮圧すべく、馬援将軍に2万人の兵を率いさせ中国南部に攻め入った。42年4月に雨季が到来し両軍がにらみ合いを続け、悪疫と猛暑が続く中で、ベトナム側の戦意が落ち始め、離反者が相次いだ。あせったチュン姉妹は決戦を決意し、漢の大軍に挑むも大敗を喫し、とうとう42年の末に捕まって首を切られてしまいました。

初のベトナムの独立闘争はわずか3年で崩壊したものの、現在でもチュン姉妹は民族の英雄として尊敬を集めています。

 

 

2. ゴ・クエン(呉健)

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Photo by Bùi Thụy Đào Nguyên

唐の時代と南詔王国との戦い

618年に中国に唐が成立すると、中国の周辺部に中国の文明的恩恵を受けつつ独自に発達した勢力が勃興するようになってきます。

北東には高句麗の末裔が築いた渤海王国。北には匈奴から始まった遊牧王国の後継者・契丹、突厥。西には山岳民族であるチベット民族が組織化して出来た吐蕃。

そして南では、現在の雲南省に居住していたタイ族が組織化され南詔王国(後に大理王国)が成立しました。

唐は南詔を排除しないと南の支配が危ういと考え幾度も武力侵入を試みますが、都度南詔も応戦し、逆に南詔軍が交州に侵攻するなど、一進一退の攻防を続けていました。

863年、人望の厚い都護使の王式が転勤すると、南詔は5万の軍を率いて交州に押し寄せ、前湖南観察使の蔡襲や部下の将軍たちを含む15万人が討ち死にし、交州が南詔に占領されてしまいました。

864年、それに対し唐は将軍高駢(カオビン)を指揮官として南詔を攻撃し、3万余を殺し交州を取り返しました。高駢は教養が高く兵士の信頼も厚く、善政を敷いたのでベトナム人にも人気があった人物でした。しかし南詔の侵攻のように唐の支配が緩み始めると、ベトナム人の中でも独立の意識が芽生えるようになってきます。

 

ゴ・クエン、バクダン(白藤)江で南漢軍を破る

唐の滅亡寸前の906年、交州では地方の一領主に過ぎないクック・トゥア・ズゥ(曲承裕)が勝手に節度使を名乗り始めますが、唐はもはやそれを討伐する余裕すらなく、そのまま認める状態に陥りました。

クック・トゥア・ズゥの死後、中国南部に地方権力による「南漢国」が建国されますが、孫のクック・トゥア・ミィ(曲承美)はそれを無視し、中央を支配し唐の後継者である後梁に節度使の認可を申し出た。これに怒った南漢は兵を起こし交州に攻め入り、クック・トゥア・ミィを捕えてしまいました。

交州は南漢の支配下に入りましたが、デルタ南部の愛州(現タインホア)には支配が及ばず、クックの部下だったズオン・ディエン・ゲ(揚延芸)将軍が支配していました。

愛州では中国との接触は低く、ベトナム的な秩序を重視する風土が残っていました。

931年、ズオンは約3000人の兵を率いて南漢軍を遅い大羅城を攻め落としたため、ズオンを節度使として認めざるを得なくなりました。ところがズオンは対中関係を重視する部下のキュウ・コン・ティエンに殺害されてしまった。

この裏切りに憤ったズオンの娘婿の武将ゴ・クエン(呉権)は反中国勢力を結集してキュウ・コウ・ティエンの排除に立った。キュウ・コウ・ティエンは南漢に救援を頼み1万人近い兵がデルタをさかのぼってゴ・クエンのベトナム防衛軍を攻撃しようとしました。

938年、ゴ・クエンはキュウ・コウ・ティエンを襲って殺し、バクダン(白藤)江を遡てくる南漢軍を待ち受けた。

ゴ・クエンはあらかじめ、バクダン江の水面下に先端を鉄で覆った杭を大量に差し込んでいた。バクダン江に押し寄せた南漢軍は、小舟に乗ったゴ・クエン軍を追いかけた。ところが潮がひき始め、南漢軍の船は鉄杭にぶつかって動けなくなってしまった。そこにゴ・クエン軍が襲いかかり、南漢軍総大将弘操は殺害され、兵士の大半は水死し、残った兵士は散り散りになって敗走しました。

この戦いで南漢軍を打ち破ったゴ・クエンは939年、都をコロアに定め自ら王と称し独立を宣言しました。

ゴ・クエンの死後は内乱の時代に突入しますが、それを統一したディン・ボ・リン(丁部領)は国号を大瞿越(ダイコヴィェト)と都をホアルウに起き、約1000年ぶりに中国からの完全な独立を達成しました

 

  

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3. レ・ホアン(黎桓)

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 丁朝の宮廷内部の混乱

ティン・ボ・リンは政権を安定させるために、各地域の有力な豪族から皇后を5人迎い入れましたが、そのことが原因で宮廷内の勢力争いが混迷を極めるようになってしまいます。

ティン・ボ・リンは長男リエンを差し置いて、次男のハン・ランを皇太子とし、三男のディン・トゥエを衛王としました。これに不満を持ったリエンはハン・ランを殺害。さらに延臣ド・ティックが宴が終わり眠っているディン・ボ・リンとリエンを殺害。ド・ティック自身も3日後に殺害された。

 

摂政レ・ホアン、宋軍をバクダン江で破る

結局王の座についたのは、六歳になったばかりの三男ディン・トゥエ。摂政には十道将軍レ・ホアン(黎桓)が就き、副王と称し権力を集中させました。レ・ホアンは皇后とも親密な関係になっていったため、これを知った宮中の太守たちはレ・ホアンに王位簒奪の嫌疑ありとして兵を起こしますが、全てレ・ホアンに鎮圧されてしまう。

混乱する丁朝ベトナムの情報を知った宋は、再びベトナムを支配すべく981年に大軍勢を2つに分けて侵攻してきた。

現在の中国・ベトナム国境であるランソンに侵攻してきた宋軍は、レ・ホアン自らが指揮するベトナム軍と衝突。レ・ホアンはわざと退却し、その後降伏するかに見せかけて宋軍の陣地を急襲。宋軍は散り散りになって退却しました。

バクダン江から侵攻してきた宋軍を迎え撃ったのは、レ・ホアンの腹心ファム・キュウ・リュオン。ファムも宋軍に降伏するかに見せかけ、宋が警戒を解いた隙に総大将・侯仁宝を捕えて殺害。大将の死に宋軍は混乱し退却しました。かなり卑怯な方法ですけど、国が滅びるかもしれない国難の前に、汚いも何もないでしょう。

この勝利の後、レ・ホアンは直ちに宋に使節を送りベトナム領有を要請し、宋はしぶしぶレ・ホアンを安南都護・静海軍節度使に任じました。

これにより丁朝は廃され、レ・ホアンを始祖とする前黎朝ベトナムが始まりました

 

 

4. リ・トン・キエト(李常傑)

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わずか29年で滅びた前黎朝

レ・ホアンは第三子を後継者に指定して死にますが、宮廷争いで異母弟の第五子のレ・ロン・ズィンが王位を継ぎました。ところがレ・ロン・ズィンは「ベトナム史上最も悪逆な王」と言われるほど残虐で、処刑を好み罪人が殺される様子を見て楽しむような男だった。レ・ロン・ズィンが1009年に死ぬと、再び王家の後継者争いが勃発するのを恐れた宮中の近衛隊長リ・コン・ウアン(李公蘊)が幼帝を殺害。自ら皇帝に就き、李朝ベトナムを開きました。

リ・コン・ウアンは首都のホアルウが狭くなったので、昔の大羅城に首都を戻し、新首都の名前をタンロン(昇龍)と名付けた。このタンロンは現在のベトナムの首都ハノイです。

三代目のリ・タイン・トンの時代に国号を大越(ダイヴェト)に改め、以降の歴代王朝もこの名を名乗るようになります。

 

リ・トン・キエト、宋軍を打ち破る

四代目リ・ニャン・トンが王位を継いだ時、彼はまだ7歳でした。

当時の宋王朝を宰相を務めていた人物は王安石で、彼はベトナムへの軍事侵攻と占領を神宗に進言しました。

当時中国南部にはヌン族の首領ヌン・チ・カオが、現在のカオバン付近に大歴国を建国し勢力を拡大しており、王安石はベトナムがヌン族を支援していると考えていました。実際にベトナムは大歴国と友好関係を築いており、金などの希少な鉱物資源の供給を優先的に受けていました。

王安石はベトナムを占領することでヌン族の勢力を弱め南部の安定を図ろうとしたわけです。

1074年、宋はベトナムに侵攻するための大規模な兵を起こし始めた。これに対し、李朝はまだ四代皇帝が10歳と幼かったため、将軍のリ・トン・キエトに全軍を任せ、宋軍と戦う体制を整えました。

リ・トン・キエトは機先を制し1075年に中国南部に10万余の大軍で侵攻。「悪政に苦しむ民衆を解放にしに来た」とプラカードを掲げて宣伝し、宋兵8000を殺し多数を捕虜にし帰国しました。

これに対し宋は南部のチャンパと真臘(クメール)に援軍を要請し、南北からベトナムを挟み撃ちにしようとしました。北から侵攻した宋は首都タンロンの対岸にまで迫り、紅河を渡ろうとしますが、レ・トン・キエト率いる水軍の迎撃を受けてとうとう渡河することが出来ませんでした。戦闘は長く続いたため、リ・トン・キエトは詩を作って全軍に布告しました。この詩はベトナム人の抵抗の姿勢を示すとして現在でも非常に人気がある詩です。

南國山河南帝居(この南の国の山河は南の帝王が支配するところ)
截然定分在天書(はっきりと定め分かつと天書にも書かれている)
如何逆虜來侵犯(どうして蛮人がこの地を犯すことができよう)
汝等行看取敗虚(お前たちが敗北の憂き目にあうことは必定だ)

宋軍は首都近辺から撤退あしますが、国境地帯の五県を奪った。そのためレ・トン・キエトは宋に象を贈って和平を乞い、占領した地域を返還するように求めた。宋は結局これを認め、1076年和議が成立しました。

  

 

 

繋ぎ

度重なる中国の侵略、そして何度も打ち破ってきた激しい歴史です。

ベトナムの都ハノイは周辺を山岳地帯に囲まれたデルタの中心にある。そのため、紅河を遡れば容易に首都に到達できるし、山岳地帯から急襲されたらすぐに首都に到達されてしまう。西の山岳地帯から東の海岸部までわずか50キロしかなく、ハノイは防衛が非常に脆い都でありました。

そのためベトナムの歴代王朝は北部・西部の山岳民族とは友好な関係を築いて反乱を起こさせないようにして、水軍を鍛えて東の海からの侵入を防ぐことが基本戦略でした。

しかし山岳民族は北の強大な中国との関係もあり、友好関係を長く続けることは難しく、何度も首都が急襲を受けて占領されており、安全保障上の観点から後背地を獲得しておかねばいざという時に国が滅びかねない。

そのためベトナムの王朝は西と南への進出を図っていくことで国を拡大していきました。

後編ではモンゴル軍の侵入、そしてフランスの支配に対するベトナムの抵抗の歴史をまとめていきます。

reki.hatenablog.com

 

 

 

参考文献

物語 ヴェトナムの歴史- 一億人国家のダイナミズム 小倉貞夫 中央公論社

物語 ヴェトナムの歴史―一億人国家のダイナミズム (中公新書)

物語 ヴェトナムの歴史―一億人国家のダイナミズム (中公新書)

 

 

 

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