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西アフリカ・ダホメー王国の「女性兵士」

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史上最大規模の女性戦闘集団「ダホメー・アマゾン」

「アマゾン」といえば、ECサイト最大手かブラジル奥地の森林地帯を連想します。

仮面ライダーを想像する人もいるかもしれません。

が、昔は「アマゾン」と言えば「女性兵士」のことを指しました。

古代ギリシアの神話に登場する女性だけの部族「アマゾン」がその語源。アマゾンは黒海沿岸地方に住み、部族の女は他部族の元に行って性交し、出産し男が生まれたら殺し、女が生まれたら育成して戦士に育てるとされています。

あくまで伝説なので本当かどうかわかりませんが、アマゾンの伝説は長く語り継がれ、南米の森林で原住民の女性兵士がいたことから「アマゾン」と名付けられたと言われています。

さて、古代ギリシアのアマゾンには劣るかもしれませんが、組織的に女性兵士を育成し国王の親衛隊にまで育成させたのが、西アフリカのダホメー王国。

王国末期、度重なる戦役で慢性的な男性不足に陥ったダホメー王国は、兵士の主力として女性を採用。厳しい軍事訓練を施し、対仏戦争ではフランス軍相手に果敢に戦いました。今回は日本ではあまり知られていない、ダホメーの女戦士についてです。

 

 

1. ダホメー王国の歴史

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 ダホメー王国は現在のベニン周辺で15世紀ごろ起こった王国。

17世紀後半に海岸部と内陸部を支配した王は、軍を率いて内陸部に遠征して奴隷を獲得し、それを海岸部でヨーロッパ人に売却し、得た金でヨーロッパ人から武器を買い、さらに新たな遠征に赴くという経済構造が成り立っていました。

1818年に即位したゲゾ王は、ダホメー王国の最盛期を築いた人物。

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ゲゾ王は前の王の政策を引き継いで奴隷獲得戦争を継続すると同時に、宿敵であるヨルバ族との大規模な戦争を起こして征服し、さらに大規模な奴隷狩りに乗り出して外貨を獲得。そこで得た資金をパーム油の生産に乗り出し、奴隷に頼らない経済構造を作り出そうとしました

また、ゲゾ王は今回の話の主役である「女性兵士」を本格的に取り入れた王でもあります。

その後ダホメー王国は1890年〜1894年にかけて対フランス戦争を戦い、これに敗れてフランスの植民地となってしまいます。

この時フランス軍として戦ったのは、かつて奴隷として売られたヨルバ人など周辺の民族で、まさに奴隷貿易によってダホメー王国は身を滅ぼしたと言えます。

(※西アフリカ諸国の奴隷貿易について詳しくはこちら)

reki.hatenablog.com

 

2. ダホメーの女性兵士の起源

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王の親衛隊としての女性兵士

先に述べた通り、女性兵士を本格的に運用したのはゲゾ王の時代でしたが、ダホメーが女性兵士をいつから採用していたのかは定かではありません。

スタンリー・アルペンによると、ダホメーが王国として成立する以前、フォン族の首長だったダコという男が、グベトという名の女性のみで構成されるハンターを結成したのがその始まりだそうです。

長い間グベトはあくまでハンターであり、戦争に投入されることはありませんでしたが、ゲゾ王はグベトを「よい対人ハンターである」として軍隊に投入することにした、というのです。ただしこれは証拠がなく、少なくとも1720年に王の親衛隊として女性兵士が登場したことは分かっています。

親衛隊となった女性兵士は、「王の第三身分の妻」として、王の夜のお供をすることもできました。が、容姿が美しくない者は子供を産む権利はなかったそうです。

19世紀になると、ダホメーの女兵士は皆王の女であり、王は女兵士以外と関係を持たない、と噂されていました。

 

昔から女性を兵士や指揮官に据えるのは、あまりないことではありましたが、世界的に見てさほど特殊なことではありませんでした。

女性ながら戦闘に参加し活躍した人物は枚挙に暇がありません。ただどちらかというと、個人的な資質に依存しており当時でも例外的ではありました。

reki.hatenablog.com

組織的に女性兵士を育成した事例もあり、例えばタイのモンクット王(ラーマ4世)は400名の女性兵士を身辺警護のために雇っていました。ただしこれは儀礼的なもので、実際の戦闘に駆り出すことは決してありませんでした。

ダホメーの女性兵士が世界史的にも特殊なのは、「国家が集団として女性を兵士として育成」し、それを「実際の対外戦争で運用」したことにあります。

 

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3. ダホメーの女性兵士の実態

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ダホメー軍の主力になる女性兵士

初めてダホメーの女性兵士の戦いが記録に登場するのは1729年、港が宿敵のヨルバ族の襲撃を受け、危うく陥落しそうになったところを女性兵士が救援に来た、というのが最初。

 19世紀にダホメー王国は対外戦争を活発化し、4度の大きい軍事侵攻を起こしていますが、そこでも女性兵士は活躍し、15,000の兵のうち6,000が死亡するという多大な犠牲を出しています。これほど犠牲者の数が多いのは、女性兵士がダホメー軍の主力として投入された証と言えます。

 

なぜ女性兵士が主力なったのか

なぜダホメーでは女性を軍の主力に置かざるを得なかったのか。

もともとフォン人の社会では、男性と女性は同等の立場にあり、儀式を行うことで「女性は男性に成る」ことができるという考えがあったことがありますが、最も大きかったのが「兵力差」。

宿敵のヨルバ族はフォン人のおおよそ10倍ほどの兵力を誇っていました。一方フォン人は、度重なる奴隷獲得戦争で男の絶対数が少なく、兵力を補強しないといつかヨルバ族に飲み込まれてしまう。

そのため女性を武装化させて、最初は王の身辺警護に当たらせたものの、対外戦争の拡大に伴い男の数が絶対的に足りなくなってきたため、女性兵士を前線に投入するようになっていったと考えられます。

女性兵士は一人当たり50人の奴隷を抱えることが許され、タバコやアルコールが支給されて待遇面は悪くなったようです。むしろ、タバコやアルコール漬けだった当時のフォン人にしたら、憧れの職業だったのかもしれません。

 

 

5. ダホメー王国と女性兵士の終焉

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1870年ごろからダホメーは対外戦争を強化し始めました。

ヨーロッパからやってきた軍事教官は女性兵士を少なくとも1,500名ほどに減らすべきだと王に助言しますが、 以降20年間以上女性兵士を使ったヨルバ族への攻撃は続いていきます。

1889年、ダホメー軍はフランスの支配下にあったポルト・ノヴォを占領。フランスの反発を招き1890年から第一次フランス・ダホメー戦争が勃発。この戦争では大きな戦闘が2回あり、コトノウの地で朝焼けの大雨の中で行われた会戦では、圧倒的な火力を有したフランス軍がダホメー軍を殲滅。ダホメー軍の中には女性兵士部隊も含まれており、捕虜となった女性兵士は処刑されました。

結ばれた平和条約は守られず、2年後に第二次フランス・ダホメー戦争が勃発。ダホメー軍は軍備を強化しており、23回に渡って会戦が行われました。ある会戦では女性軍はフランス軍に対する前衛軍に位置しており、結局戦いはフランス軍の勝利に終わったものの、最も最後まで抵抗を続けたのも女性軍でした。 

第一次と第二次の戦いを通じて、1,500名の女性兵士がのうち半分が戦死。

フランスの植民地となったダホメーでは女性兵士は禁止され、軍は解散して生き残った兵士は一般の生活に戻されたのでした。

 

公式な記録によると、ダホメーの女性兵士で69歳以上生き延びた者はおらず、最後の一人は1943年に死んだことになっています。

ところがベニンの歴史家によると、本当の最後の一人はナウィと名乗る女性で、彼女は対フランス抵抗戦争を戦った女性兵士の生き残りで、1979年11月に死んだそうです。

 

 

 

まとめ

勇ましい話ではありますが、あまり気持ちのいいものではありません。

結局女性兵士は近隣部族との戦いのために駆り出された存在であり、それは何のためかというと奴隷獲得であり、今の我々の価値観からすると決して褒められた存在じゃないからです。

もともと西アフリカは女が強い土地なので、女性が主導権を取りやすい環境にあったことと、加えて近隣部族との抗争にヨーロッパ列強が割って入ってきて、女でも扱いやすい火器をばら撒いていったというのも大きいのかもしれません。

今回は概要のみをすくうようにまとめましたが、ダホメーの女性兵士が登場してきた社会・文化的な背景と、ヨーロッパ列強や近隣部族との競合関係、国際的な関係とを見ていくと、また違う視点が見えてくるかもしれません。

 

参考サイト

"Dahomey’s Women Warriors" SMITHONIAN

"6 Bizarre Armies You Won't Believe Won Real Victories" CRACKED

History Museum of Abomy

 

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