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西欧の大国・フランク王国とは何だったのか(後編)

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 フランク王国の社会・経済・文化とは

西ヨーロッパ世界を形作ったフランク王国の歴史とカール大帝の業績について。

前編ではベルギー東南部から出発したカロリング家が、フランク王国の王位に就き軍事を整えて大規模な対外戦争で領土を拡大していく様をまとめました。

 後編では、カール大帝の時代のフランク王国の政治・経済・文化についてまとめていきます。

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前編をまだご覧になっていない方はこちらよりどうぞ。 

 

 

 4. フランク王国の政治・経済

フランク王国の社会は「祈る人」「戦う人」「働く人」 の3つの身分から成る、と言われました。すなはち、「聖職者」「貴族・戦士」「農民・漁民・商工業者」です。

 

4-1. 働く人

「働く人」の中でもローマ末期から見られた「独立農民」が多数を占めていました。地域や時代によっては行動を制限された農民はいましたが、大多数は土地に縛られない自由な身分の農民でありました。

ローマ帝国という強大な権力が崩壊した後、農民は様々な圧力から解放され自由な存在になり、自由な農業活動で生計を立てる独立農民となりました。自由であると同時に社会的な制御がなかったため著しく生産性が低く、また気候が寒冷であったことも低い農業生産の一員でありました。

しかし7世紀半ばから気候が温暖化し、小麦の栽培に適した気候になると、特にフランク王権の集中したライン川やパリ盆地で大所領による集団農業が見られるようになっていきます。農民たちは土地に従属し、後の荘園制度の走りのような仕組みが現れてきました。

 

4-2. 戦う人

社会の上位層を君臨したのは「貴族・戦士」層です。

フランク王権は支配地域を数百の「伯領」に分割し、王の臣下を伯として送り込み地方統治に当たらせました。

伯は王権の意向を住民に伝えると同時に、裁判・軍事・税収・警察など、地方行政運用を代行しました。現在の地方自治体と同じような機能を有しており、大きな権限を持っていたことが分かります。伯の中には後に地方行政で活躍して大きな権限を持ち、周辺の伯を統合して独立したり、あるいは王権を乗っ取ってしまう者すら現れてきます

 

 これら王の臣下である伯は地方の貴族層として社会の最上位に君臨すると同時に、王国の中で自分たちの一族を「出世」させようと努力しました。

有力貴族は国王一族と縁組することでカロリング家の血統に加入して王国のエグゼクティブ層に入っていたし、中小の貴族層は征服戦争や統治活動、ヴァイキングからの防衛などで名を上げて、勢力圏を拡大しなんとかエグゼクティブ層に近づこうとしました。

 

ローマ時代の貴族は行政官であり、高い教養を身につけているのが特徴でしたが、フランク王国の貴族はイコール戦士であり、腕っ節が強かったり統率力がある奴が偉いとされました。

カール大帝はほぼ毎年のように対外戦争をおこなったため、貴族の戦士化に拍車がかかることになりました。

ローマ時代の富の中心はイタリア半島でしたが、フランク王国の時代の経済の中心は中東のアッバース朝であり、バグダッドに集積された膨大なマネーが周辺部に流れこみました。この周辺部に流れたマネーを武力でぶん取ろうとしたのがカール大帝であり、対外遠征でフランク王国の経済は成り立っていました

実際に、フランク王国の主要な輸出品の筆頭は「奴隷」と「武器」でありました。

奴隷は軍事遠征で捕えた人々、主にスラブ人をフランクまで連行し、選別した上で地中海で船に乗せ、イスラム圏に運ばれて売買されました。

武器は主にフランクの軍事遠征用に国内向けに盛んに生産されましたが、一部はイスラム圏にも輸出されました。

 

4-3. 祈る人

このようにフランク王国の基盤は一にも二にも軍事力であったのですが、「祈る人」である司祭も例外ではありませんでした。

カール・マルテルは、騎馬軍団を組織する費用を賄うために修道院を還俗化することで財産を国家に取り込むことに成功しました。 つまり、王や伯の息のかかった者を修道院に送り込んで司教や修道院長に就任させ、教会財産を吐き出させたわけです。

これにより、戦うことしか知らない連中が司教や修道院長になり、祈りよりも軍事訓練に明け暮れ、王の召集がかかると勇んで戦場に赴く聖職者が多数出現しました。

とはいえ、これら「祈る人」は戦争ばっかりやっていたわけではなく、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文芸復興運動の重要な担い手でもありました。

 

 

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6. カロリング・ルネサンス

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 東方でのイスラムの拡大は、シリアやエジプトなどの東方キリスト教の知識人や聖職者をヨーロッパに亡命させました。

亡命知識人はフランク王国内の修道院に逃れてきたのですが、その時ヨーロッパにはすでに失われていた多数の写本を携えてやってきました。自然と、これまで活力を失っていたキリスト教の研究が活発化することになります。

加えて、カール大帝によるザクセン人など「未開部族」の制圧は、未だにキリスト教を受け入れていなかった人々へ新たな教化の機会をもたらしました。

「キリストの正しい教えを拡大する」ために、修道院では写本が大量に複製され、それによって修道士を学習させ、未開地への宣教に当たらせました。

素早く大量に写本を複製するために書体の改良が行われ、習熟に時間がかかり難易度の高かったラテン文字は、読みやすく学びやすい「カロリング小文字」に改良されて、文芸・学術の普及に大いに貢献しました。

 

このように外部環境の変化に伴い文芸・知的活動が盛んになったという要因もありましたが、カール大帝自身が知識人や文化人を保護し、「哲人王」であろうとした側面も大きなものがあります。

王国の首都アーヘンの宮廷には多数の文人が居住し、詩文を作り王に聞かせたり、聖書の研究を行いその成果を王に発表したり、王を中心とした文芸サークルが存在しました。

フランクの王は文芸活動を保護することで、自分自身が古代ギリシア・ローマから受け継がれた文化の担い手であり後継者であると認識するに至りました。

 このような自負は、カール大帝の「西ローマ帝国皇帝戴冠」という大事件とも密接に結びついています。

 

 

7. 西ローマ帝国皇帝戴冠 

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 800年12月25日、ローマの聖ペテロ大聖堂で教皇レオ3世がカールに冠を載せ、「西ローマ皇帝」を任ずる儀式が行われたことは高校の教科書にも登場します。

至高の存在である教皇が、カールに不在であった皇帝の位を授けたという構図に見えなくはありませんが実際はそうではなかったらしく、

その前に実は教皇レオ3世は「不道徳・不品行」などの疑いで告発されており、その裁判を執り行うためにカールはローマに赴きました。裁判ではレオ3世の「容疑」を裏付ける決定的な証言は出てこず、23日に聖書に手を置いて自らの潔白を宣誓したことで、レオ3世の嫌疑は晴れました。

その2日後のクリスマスのミサで、教皇レオ3世はカールに黄金の冠を載せ「ローマ皇帝」に戴冠されました。これは両者が綿密な打ち合わせをした上で行った事柄ではなくどちらかというと偶発的な出来事で、教皇レオ3世側にその意思があったと考えられています。

もはやかつての西ローマ皇帝と同質のものではないにせよ、しかるべき権威によって「西ローマ皇帝」と任ぜられた事実は重たいものがあり、東ローマ帝国との軋轢が増すことは明白だったし、古来からの文化伝統を自らの責任によって受け継ぎ発展させる義務をも負うことになります。

しかしカールはフランク王国をキリスト教帝国として位置付け、自らその伝統の保護者たることを受け入れたわけです。相当な決意だったに違いありません。

 

 

カールの西ローマ皇帝就任を受け、東西教会の統一を目指すビザンツ女帝エイレーネーは自らとカールとの結婚を打診しました。両皇帝の結婚により、統一ローマ帝国を構築しようと試みたわけです。

カールはこれを受け入れるつもりでしたが、802年10月に財務長官ニケフォロスが宮廷クーデターを起こしてエイレーネーを排したため、東西ローマ統一は泡と消えることとなりました。

皇帝となったニケフォロスは、カールの皇帝の称号を認めることを拒否。あくまで東ローマの権威こそがローマ帝国唯一の皇帝権力であるという立場を崩そうとしませんでした。

こうしてフランク王国とビザンツ帝国の外交関係は悪化していき、806年についに軍事衝突するに至ります。この戦いでは決着はつかずに812年に和平が締結されました。

 もし東西ローマの統合が実現していたら、後の世界にどのような影響があったでしょうか。歴史にIFはないと言われますが、東のアッバース朝に対抗する巨大な権力が西に誕生することで、現在とは全く異なる歴史の歩みを見せていたかもしれません。

 

 

 

まとめ

かつてヘレニズム時代に統一されていた地中海〜ペルシア〜インドの領域を再統合したイスラム帝国は、バラバラになっていた先端地域を統合して一つの経済圏にすることで、莫大なヒト・モノ・カネの流通を可能にさせました。

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イスラム帝国には世界中から大量の富が集まり、また多額のマネーが周辺各地にバラまかれました。

東はインド、中央アジア、東南アジア、中国。

北は黒海を経てロシア、バルト海。 

西は北アフリカや地中海、イベリア半島を経てフランク王国。

現在の西ヨーロッパの形を作ったフランク王国は、イスラム帝国がもたらす巨大な富を取り込むことで巨大化し帝国を形づくりました。

カール大帝亡き後、後継者争いが勃発しフランク王国は3つに分裂。その3つの後継国が、現在のフランス、ドイツ、イタリアであると言われています。

これらの国がその後の世界に与えた影響の大きさを考えると、「西ヨーロッパ」という枠組みを作ったフランク王国とカール大帝の業績の偉大さが凄まじいものであることがわかりますね。

 

 

参考文献

世界史リブレット<人> カール大帝 佐藤彰一 山川出版社

カール大帝―ヨーロッパの父 (世界史リブレット人)

カール大帝―ヨーロッパの父 (世界史リブレット人)

 

 

 

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