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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

ケベックの歴史と独立運動の発展(後編)

カナダ イギリス フランス

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Image from ESL Library

 独自のケベック・ナショナリズムを作ったフランス系カナダ人

 引き続き、カナダ・ケベック州の歴史と独立運動の勃興に至る歩みを追っていきます。

 前編では、フランス北アメリカ植民地の成立からイギリス支配の確立、そして連合カナダから連邦制への歩みを見ていきました。

連邦制への反発、そして対英自立・対米依存からカナダの経済発展が促進され、その中で停滞するケベックから、不満と改善とナショナリズムがマグマのように噴き出してきます。

前編はこちらからご覧ください。

 

 

 4. 連邦制への疑問

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4-1. レッドリヴァー蜂起

1867年11月、連邦制国家となった新生カナダ自治領の議会が開会され、初代首相にイギリス系保守派のジョン・マクドナルドが就任しました。

当時の連邦カナダの人口比は、イギリス系が約60%、フランス系が約33%、先住民が約7%と推計され、東にフランス系、西にイギリス系、先住民は辺境に暮らす構図は変わらず、分裂のリスクを抱え込んだままの船出でした。

国家の方針として西部の開拓が進められていくのですが、フランス系住民はイギリス系住民が西部に入ってバッファローなどの資源を根こそぎ奪ってしまうのを恐れた。

西部フロンティアのレッドリヴァー植民地に住むフランス系住民は、1869年11月にレッドリヴァーの連邦への無条件移譲に抗議し、ルイ・リエルという男を首班に臨時政府を立ち上げ、レッドリヴァーを「中央カナダと同等の州として連邦に参加させるよう」に主張しました。

放っておけば、レッドリヴァーにイギリス系住民がやってきて、自分たちの資源を奪い去られると恐れたのです。

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ルイ・リエルはオタワ政府と交渉し、先住者の保護措置を認め、英語フランス語の両方を公用語とし、カトリック系学校の設立を認めるなどの譲歩を勝ち取り、レッドリヴァーをマニトバ州として連邦に参加させることを認めさせました。

ところが、マニトバ州の成立から間もなく、イギリス系が大挙してやってきて政治・経済・社会生活を支配するようになり、先住者の保護はなし崩しになった。フランス系は失望してマニトバ州から逃れていきました。

レッドリヴァー蜂起を受けて、ケベックのフランス系住民はイギリス系の非道に憤り、ルイ・リエルを自分たちの文化・伝統の守護者であると祭りたてました。フランス系の多くは自分たちの国はローマ教皇に忠実なカトリック国家となるべきだと望んでいました

一方でイギリス系はフランス系を国家分裂主義者として敵意を向け、北方の気候に適したアングロ・サクソンこそが新生カナダの担い手であるとして、イギリス系主導の国家統一と西部進出を主張していました。

 

4-2. 連邦制への疑問

レッドリヴァー以降フランス系住民は先住者の保護をオタワ政府に訴えますがその度無視され、再び実力行使を図り始めます。

現在のサスカチュワン州のフランス系住民は、アメリカに亡命していたレッドリヴァーの英雄ルイ・リエルに懇願し再び抵抗運動に立つように求め、リエルはそれに応えることにしました。

1885年、臨時政府がバトーシェで創設され、フランス系住民の民兵に加え、中央政府に抑圧され続けていたインディアンの部族の中から、クリー族のビッグ・べアートパウンドメーカーが参戦。一時は政府軍を押し返すも、物量に劣った反乱軍は4日後に崩壊。

反乱軍の中心人物ルイ・リエルは処刑されました。

この出来事は特にフランス系住民に衝撃を与え、「愛国者リエルがフランス系の大義のため死んだ」と受け止められました。

ケベック州では民族主義政党が台頭し、「州権の強化」を主張するにようになりました。これはマクドナルドが進める中央集権体制への異議申し立てであり、同様の主張はケベックだけでなく他の州でも州権論が盛んに叫ばれるようになっていきます。

 

 

5. 分裂の中の発展

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5-1. カナダ中興の祖ローリエ

1896年7月に首相に就いたウィルフリッド・ローリエは、カナダを新たな発展に導くことになります。

彼はカナダ初のフランス系首相で、「いずれ本国=植民地関係は消滅すべき」と主張するカナダ独立論者でした。

ローリエはフランス系ながら「ヌーヴェル・フランスの征服こそが今のカナダを作ったと認めるべき」として、「イギリス系やフランス系という対立ではなく、カナダ人として協調すべきである」と訴え続けました。国際的にも本国イギリスではなく、アメリカとの関係を強化すべきという立場でした。

当時はまだイギリス系住民の間ではイギリスとの結合を求める声が強く、その妥協の中でローリエは大英帝国との枠組みの中で地位を高め、将来的な離脱を目指すという方向に向かっていきます。

 

5-2. カナダ経済発展

20世紀初頭から小麦価格が上昇し、西部開拓に対する期待から本国イギリスから大規模な投資が投下されたことで、カナダは空前の経済発展を遂げることになります。

西部に大規模な移民が流入し、またオンタリオ州を始めとしたオールド・カナダでは工業化が進展しました。

一方でケベック州でも工業化は進んだものの、伝統的なカトリックの価値観が根強く、フランス系起業家はイギリス系に比べて投資や産業振興に不熱心でした。「工場や金を持つと、他の連中と同じように、フランス系カナダ人はアメリカ人になってしまう」として保守的な経済発展がなされ、イギリス系住民が多い州に比べて経済的な差が生まれる要因が作られました。

実際にこの時期にはカナダに対するアメリカからの投資はめざましく、額自体はイギリスよりも劣るものの、投資の先が工業や鉱工業・林業に集中し、鉄・パルプ・ニッケルなどの重要な資源を支配しました。この時代にカナダの対米依存は一層強まっていきます。

 

5-3. 戦争の時代

1914年8月4日にイギリスがドイツに宣戦布告し第一次世界大戦が始まると、カナダはイギリス とともに「正義を守るため」の戦いに突入していきます。

当時のイギリスは国力の低下が著しく、インド、オーストラリア、南アフリカなどコモンウェルスの国々の兵の協力なしには戦争を戦えない状態になりつつありました。

カナダ軍はイギリス軍の一翼として獅子奮迅の活躍をし、ヴィミー・リッジの戦いでは英仏軍が総崩れになった後、カナダ軍が孤軍奮闘したおかげで山稜の重要拠点を奪取。各国にカナダ軍の誇りと威信を見せつけたのでした。

ところが戦争が長期化すると、イギリスからさらなる増兵の要請が来るようになります。フランス系はこれに反発し、「欧州の戦争は我らには関係ない」とまで言い放った。これにイギリス系は「戦争の非協力者」として反発を募らせた。

第二次世界大戦でも、カナダ世論の大勢はイギリス支持で「断固参戦すべし」「徴兵もやむなし」でしたが、ケベックのフランス系住民は「中立」を主張し、あくまで「州の自治、英仏系カナダ人の平等、家族重視の社会改革の実現」を要求し続けていました。

戦争を通じてカナダはアメリカと軍事同盟国になり、アメリカからの軍需品の注文が殺到し、政治的だけでなく経済的にもさらに対米依存が強まることになりました。

 

 

6. ケベック独立運動の展開

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6-1. 対英自立と工業化 

 カナダは第2次世界大戦からイギリスから自国を自立化させ、印璽法(1939年)、カナダ市民憲法の制定(1946年)、君主大権移譲の勅令(1947年)を相次いで行い、首相の任命・罷免・議会の招集・解散権などが、英国王からカナダに移譲され、名実ともにイギリスの支配が終結しました。

一方でアメリカとの関係はますます緊密化し、東西冷戦下に置いてソ連に対する北方の守りとしての重要性から軍事的な連携を強化。共産化阻止のための地域戦争にも積極的に参加しました。また経済的には、アメリカ資本が投下され各地に工場が建ち工業化が進展。カナダはアメリカ資本の「子会社」のような構造になっていきました。

過度のアメリカ依存は、カナダ独自の企業が育ちにくくなるという弊害も生み、実際にカナダは「国産自動車メーカー」を保有していない珍しい国です。

 

6-2. 「静かな革命」

このように、イギリスからの自立、経済発展に伴う対米依存の深化の只中にあった中で、唯一ケベック州はカトリック教会の伝統的価値を保有していた保守的なデュプレシ州政権の下で停滞を続けていました。

経済発展の恩恵にはあずかっていたものの、失業率はカナダでも最悪で、温情的な人事や企業慣行から汚職が蔓延。社会的に閉塞感が漂っていました

危機感を抱いた若者グループは、ケベックの古い社会・政治・経済に問題があるとして、フランス系カナダ人の体質そのものの刷新を主張しました。

1959年にデュプレシが死亡すると、州選挙で元連邦官僚のジャン・ルサージュ率いる自由党が勝利を治め、改革に乗り出しました。

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ルサージュ政権は州内の企業を育成するための公的投資機関を設立して投資を促進し、カトリック教会の手から教育の管理を州立のカレッジに移行させ、コネ人事の廃止など一連の腐敗撲滅策を進めました。また、労働基準法を改正し、男女平等を進め、病院を増設しました。

これらの改革は見事なほど成功を治め、人々はフランス系である自分たちの誇りを取り戻すに至った。

ルサージュ政権はフランス系である自分たちの文化を保護育成するため文化省を設立し、カナダ放送公社の中でもフランス語放送網はほぼ独立した存在となった。

そのような社会の動きの中で、「ケベック・ナショナリズム」を訴え自らを「ケベコワ人」として自らのアイデンティティをより鮮明にする者が現れました。

彼らはケベコワ人やフランス語の地位が低く、イギリス系から差別されているとして、政治的な独立すら主張するようになりました。

より過激的にケベックを武力をもって独立させようとする勢力も現れました。

それがケベック解放戦線(FLQ)で、自らを「植民地化された民」であるとし、「ケベックの土地に寄生する帝国主義者たちを排除せよ」と訴えました。

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彼らは爆弾をしかけたり、拉致をして身代金を要求したり、VIPを殺害したりなどのテロ行為を行い、連邦政府と武力対決する姿勢を見せました。

ケベックではナショナリストの圧力が増し、ルサージュは連邦政府に対し「ケベックの特別な地位」を認めるよう要求

連邦政府はケベック州に譲歩し、連邦の年金の費用分担からケベックを外し独自の年金制度を創設したり、外交権も一部認めるなどしました。

 

6-3. 10月危機

連邦政府はケベックが要求して立ち上げた「ニ言語・二文化調査委員会」の報告勧告に元、フランス語を英語と同じ公用語に認定し、連邦政府の議会や裁判所、行政などでフランス語を使用することを義務化しました。

フランス系カナダ人の公務員が積極的に採用され、フランス語教育が補助金を使って大々的に行われました。

しかしケベックのナショナリストからすると、連邦政府の対応は「ケベックの自治という本筋を覆い隠す偽善」としか思えなかったし、西カナダの住民からしたら「フランス系住民にまたしても特権を与えた」と見なされたのでした。

1970年10月、ケベック解放戦線(FLQ)のメンバーがモントリオール駐在商務官ジェイムズ・クロスと州労働大臣ピエール・ラポルトを誘拐し、獄中にいるFLQのメンバーの解放と宣言文放送を要求しました。

連邦政府は戒厳令を敷き軍隊を派遣して鎮圧に乗り出しますが、結局ラポルトは死体で見つかり、メンバーの一部は逮捕、一部はキューバに亡命しました。

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FLQの過激派は一連の行動を「ケベックの労働者を解放するための人民革命」と称しましたが、当然大多数のケベコワの支持は得られなかった。

多くのケベコワは「カナダ連邦内の主権」の確立を目指すルネ・レヴェックのケベック党に期待を寄せました。ケベック党は1976年の選挙で勝利し、法律制定権、課税権、外交権などを含む政治的主権の確立と、金融制度や関税制度などは連邦に依存する国家連合を目指しました。

なんというか、「いいとこ取り」という感じです。

レヴェックはフランス語をケベックにおける「唯一の公用語」として、州内のフランス語化を推し進めたため、ケベックに本社がある企業が逃げ出し、イギリス系住民20万人もケベックから脱出していきました。

 

6-4. ケベック分離独立の住民投票

 1995年、ケベックでは「主権連合」の可否を問う住民投票が実施されました。

カナダとの政治・経済の連携を維持しつつ、主権国家となるか否か。

結果、賛成が49.42%に対して、反対が50.58%。

僅差で反対派が勝利しましたが、連邦政府はさらにケベックへの譲歩をせざるを得ず、当時のクレティエン政権はケベックを「独特の社会」と認め、ケベックに憲法修正拒否権を与えるなどして図りました。

その後は州の景気が悪化して中央政府からの支援が必要になったこともあり、分離独立論は沈静化しました。住民投票はその後実施されず、最終的な分離独立を目指すケベック党も無残に落ちぶれてしまった。

現在もケベック州の平均収入は低く失業率は高く、仮に分離独立を行ったところですぐに経済的に苦境に立たされることは目に見えています。

当面はケベックの分離独立の可能性は低いと思いますが、分離主義が加速化しているように見える昨今、どのように転ぶか予想もつきません。

 

 

 

まとめ

宗教の問題や言語の問題など色々あるのでしょうが、フランス系カナダ人の「イギリス的 」に対する拒否感と抵抗の歩みは壮絶というか、感心を通り越して呆れてしまいます。

表には出てきませんが、フランス系住民はイギリス系に対して「文化的民族的優越性」を抱いており、奴らに下るのは死んでも嫌だし、というかイギリス系が自分たちフランス系に下るべきだ、くらいに思っていそうな感じです。

そうでも思わないと、経済的政治的恩恵を充分受けて様々な譲歩も得ているのに、「美味しいところはありがたくもらっとくけど、皆と同じ負担を負うのは嫌だからね」なんて言えませんよ。

とまあ、日本人的な価値観で見るとそう思っちゃいますが、きっと話はそう単純でないのでしょう。

日本から見ると羨ましいほど公平公正で心が豊かな社会に見えますが、その内情は中央と地方が互いに疑心暗鬼に満ちて結束は脆く、産業はアメリカ頼みでハイリスクだし、人種差別も一部は根強い、結構大変な感じなようです。

 

 

参考文献・サイト

 カナダ史(新版 世界各国史)細川道久, 吉田建正, 木村和男 山川出版社

カナダ史 (新版 世界各国史)

カナダ史 (新版 世界各国史)

 

 History of Quebec - Wikipedia, the free encyclopedia

Quebec History 

"ケベック独立問題" カナダ人物列伝

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