読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

ケベックの歴史と独立運動の発展(前編)

 f:id:titioya:20160806171749p:plain

誇り高きフランス系カナダ人の分離主義

カナダ・ケベック州は、カナダ東部の大西洋に面した地域で、カナダでも有数の大都市モントリオールを抱えます。

約150万平方キロの広大な土地に約770万人の人々が暮らしています。

f:id:titioya:20160806181618p:plain

ケベックはフランス系住民が建設した北アメリカ植民地ヌーヴェル・フランスが元となっており、イギリス系とは長年に渡って対立、時には戦闘状態にあった歴史があります。

カナダ連邦の一部ですが、現在でもケベックでは英語に加えてフランス語が公用語で他の連邦諸州とは異なる独自路線を採っています。

1970年代以降は2度、独立の可否を問う住民投票を実施し、二度とも反対が大勢を占めましたが、現在でもわずかながら独立派が存在します。

単に歴史的に相容れない部分があるだけでなく、経済的利害が絡んだセンシティブな問題ですが、作家のイボン・デシャン曰くケベックの独立問題は「欲しいものは何でも与えられ甘やかされた子供が、それ以上欲しがっているかのよう」だそうで、そもそもの主権や国民意識自体からして対立が根深そうです。

今回はケベック人、通称「ケベコワ」が、民族自決の認識を抱くに至った歩みを見ていきたいと思います。

 

 

1. ヌーヴェル・フランスの発展

f:id:titioya:20160806174539j:plain

1-1. フランス人の北アメリカ植民地開拓

フランスは大航海時代の後発国で、探検家を各地に派遣する余裕が出始めたのはようやく16世紀前半でした。

1524年、フランソワ1世の援助を受けたイタリア商人ジョヴァンニ・ダ・ヴェラツァーノがガスペ半島からフロリダまで探検し、大西洋岸一帯を「フランシスカンヌ」と呼び国王に報告しました。

次いで1534年にジャック・カルティエがシャルル湾に上陸し、先住民族に倣って現地を「カナタ(先住民族語で村という意味)」と呼ぶことにしました。

フランス人は豊富な鱈の漁場と毛皮交易の利権を求めて北アメリカにやってきて、セントローレンス川流域に住居を立ててここを「ヌーヴェル・フランス(新フランス)」と呼びました。フランス人は現地のアルゴンキアン語諸族、ヒューロン族と関係を築き、五大湖周辺のイロコイ族と闘いながら毛皮交易網を拡大していきました。

 

1-2. 拡大する植民地

1661年、ルイ14世が親政を開始しフランスは絶対王政のまっただ中にありました。

1663年にヌーヴェル・フランスは国王の直轄植民地となり、貿易は西インド会社の管轄下におかれました。これにより、ヌーヴェル・フランスから西インド諸島に農産水産物を、西インド諸島から本国へ砂糖を、本国からヌーヴェル・フランスに工業製品を送る三角貿易が構想されました。

ヌーヴェル・フランスでは本国に倣った統治機構が整備され、行政・立法・司法の機関が作られフランスの法律が導入されて法体系も整備されました。

それまでヌーヴェル・フランスは人口の少なさが悩みの種でしたが、本国での積極的な移民奨励策が功を奏し、1663年から73年の間に2000人以上の移民がやってきて、人口は二倍になりました。

漁業や毛皮だけでなく農業が発達し、農産物を運ぶための道路・水路などのインフラの開発も進みました。

 

こうして順調にフランス植民地としてのカナダは発展していくのですが、同時にその真横で、イギリスもまた北アメリカ植民を活発化させており、英仏抗争を経てやがてヌーヴェル・フランスはイギリスの支配下に入っていくこととなります。

 

 

2. イギリス支配下の「ロワー・カナダ」

f:id:titioya:20160807074353j:plain

2-1. 英仏北米植民地戦争

イギリスの北米植民地は現在のアメリカ合衆国の東海岸が主要でしたが、17世紀半ば以降に徐々にハドソン湾にまで拡大し、フランス人と毛皮貿易で競合の関係になっていきました。

イギリスは北米でのさらなる植民地と権益の獲得を目指し、ヨーロッパ大陸で発生した戦争に乗じて、ヌーヴェル・フランスを攻撃していきます。

1702年に始まったスペイン継承戦争では、北米ではアン女王戦争と呼ばれイギリス軍とフランス・先住民連合軍が戦いますが、イギリス軍がポール・ロワイヤルを陥落させました。

次いで起こったオーストリア継承戦争では、北米ではジョージ王戦争と呼ばれ、いくつかフランスの要塞が落とされますが後に返還され、イギリス系住民は反発します。

そして、ヨーロッパの七年戦争が起こる2年前から起こっていた、フレンチ・インディアン戦争は決定的にイギリスの優位とフランスの転落を意味づけるものとなりました。

優位な武器と戦力を持つイギリス軍は、人数的に劣勢で先住民の同盟が上手く機能しないフランス軍を各地で打ち破り、とうとう1757年のアブラム平原の戦いでフランスは決定的な敗北を喫し、フランスの北米植民地の拠点ケベック・シティが陥落。これにより、ヌーヴェル・フランスはイギリスの支配下に置かれ、新たに「ロワー・カナダ」と呼ばれることになりました。

 

2-2. イギリスのケベック統治

ケベックを獲得し敵対的なフランス系住民を抱え込むことになったイギリスは、イギリス支配に対して彼らの支持を得る必要がありました。そこで1774年に成立したのが「ケベック法」です。

これはフランス系住民に旧来の領主制を認めさせ、カトリックの十分の一税も認め、フランス民法の使用も認めるという大幅にフランス系住民に譲歩した内容となっており、言わば「民族的特権」をケベックに与えたのでした。

その一方で、ケベックへのイギリス系住民の植民と議会の掌握を図り、徐々にフランス系住民をイギリス系へ「リプレイス」する計画も進んでいました。

1776年アメリカがイギリスから独立すると、共和制を嫌った王党派イギリス系住民が多数カナダに逃げてきて、その一部はケベックにも住み着きました。

彼らは本国イギリスとの連携という強みを活かし、徐々にフランス系を脅かしていき、1790年までにケベックの毛皮取引の1/4以上をイギリス系が支配するようになっていきました。

 

2-3. フランス系住民の反乱

急激なイギリス系移民の増加はフランス系住民の反発を招き、イギリス系が支配する議会と対立するようになりました。すでに行政や立法のエグゼクティブは少数派のイギリス系に支配されていました。

フランス系住民の不満を吸収し、フランス革命の継承と共和制を主張し絶大な支持を受けたのが、ルイ=ジョゼフ・パビノーという男。

f:id:titioya:20160807001607j:plain

パビノーとケベックのナショナリストである愛国者党は、フランス系が多数を占める議会の権限強化を求めますが、イギリス系はこれを拒否。

これにさらに反発を強めたパビノーは、1837年に「自由の息子たち」と呼ばれる軍事組織を結成し、モントリオールとケベック・シティの暴力的な制圧に乗り出した。

しかしすぐにカナダ政府軍に鎮圧され、パビノーはアメリカに亡命し、反乱は失敗しました。

 

2-4. ダラム報告書と連合カナダの成立

その後、トロントなどイギリス系が占めるアッパー・カナダでも保守派に対する不満から改革派による反乱が起こり、すぐさま鎮圧されたものの本国イギリスは相次いで起こったこれらの反乱に衝撃を受けました。

そこで植民地カナダを調査し、よりよい統治方法に関して研究すべく派遣されたのがダラム伯爵。彼は5ヶ月ほどのカナダ滞在から得た見聞から1839年9月に有名な「ダラム報告書」をまとめイギリス政府に提出しました。

この中でダラムは

1. 総督ではなく議会に対して責任を有する行政評議会を有すべき

2. アッパー、ロワー両カナダを統合すべき

という提言をまとめています。前者についてはいわゆる植民地カナダに「責任政府」をもたせよ、という急進的なもの。後者については政治統合により究極的にフランス系住民をイギリス系に同化させることを目的としたものでした。

これを受けてイギリス政府は、前者の責任政府は時期尚早としながらも、後者の両カナダの政治統合には踏み切ることにしたのでした。

1841年2月、アッパー、ロワー両カナダは「連合カナダ」内の行政区分「西カナダ」「東カナダ」となり議席が統合されました。議席数は両方42議席割り当てられましたが、当時の人口は東カナダのほうが多かったので明らかにイギリス系に有利で、財政面でも西カナダが大きな利益を得たのでした。

 

 

3. 歴史的な「ケベック決議」

f:id:titioya:20041222115104j:plain

連合カナダが成立したものの、西カナダのイギリス系と東カナダのフランス系は鋭く対立し、新首府の場所の選定もイギリス系は西カナダ、フランス系は東カナダと主張して譲らず、最終的に中間地点のオタワに落ち着くまで毎年東西交替で首府が移動していたほどでした。さらに東西カナダそれぞれで保守系と進歩系政党に分裂し、議会は機能不全に陥っていました。

 さらに経済的には鉄道建設の限界からこれまで順調だった連合カナダ経済も失速し始めており、政治・経済共に行き詰まりをブレイクスルーさせる「何か」が必要だった。

タイミング良く発生したのが、「アメリカ南北戦争」でありました。

イギリス本国は南部連合に好意的な中立を宣言したことで、北部連邦はイギリス領北アメリカに対する敵対心が燃え上がり、「武力によるカナダ併合論」が主張され始めた。

アメリカの北進阻止が緊急課題となり、これまで対立していたイギリス系改革派のジョージ・ブラウン、イギリス系保守派のジョン・マクドナルド、フランス系保守派のジョルジュ=エティエンヌ・カルティエの三者による大連立が成立。

1. 北アメリカ全体での連邦制成立

2. 議会選挙での人口比例代表制導入

3. 西部のカナダ編入と大陸横断鉄道の建設

を共通目標とすることで合意しました。これはまさに政治・経済で行き詰まりを見せていた東西カナダの問題をブレイクスルーさせるための方策でありました。

新たに誕生したマクドナルド大連立政権は、1864年10月に連邦結成の大綱となる「ケベック決議」を採択しました。

これによって連合カナダは西カナダがオンタリオ州、東カナダがケベック州として再分割され、連邦政府は「財政・軍事・鉄道・金融」といった権限を集中させ、州には「教育・民法」といったローカルな事項の立法権のみを認める高度な中央集権体制が確立されました。

ケベック決議によって「連邦政府は州政府に対し、本国イギリスが植民地に対して有するものと同じ地位を占める」とされ、州は連邦の植民地という位置づけがなされることになりました。

中央集権的連邦制国家の成立で、対米防衛を中央主導で強化しつつも、未開の西部と太平洋岸を国内植民地化して経済開発を進めていくための準備が整ったのでした。

このケベック決議体制は現在のカナダの地域主義や連邦に対する州の反発の遠因となっていくのです。

 

 

 

繋ぎ

 長くなりそうなので、続きは後編に分けることにします。

元々フランスの植民地として始まったヌーヴェル・フランスは、イギリスによって支配されるようになって以降もイギリス系に同化されるどころか、逆にイギリス系に対する反発心を強めていきました。

イギリス系とフランス系の激しいつばぜり合いは議会の混乱を招き、これから帝国主義に突入する世界においてカナダを一つの国家としてまとめていくのは困難であるし、南のアメリカに付け入る隙を与えかねなかった。

そこで南北戦争という外因をきっかけにして、「連邦制だけど強力な中央集権体制」という一見矛盾したような体制を作って、内部の不満と外部との対応との両方に対応しようとしたのでした。

後編では20世紀に突入した後、「ケベック決議」で成立した中央集権体制への反発が、独立運動に発展していく過程を追っていきます。

 

reki.hatenablog.com

 

参考文献・サイト

 カナダ史(新版 世界各国史)細川道久, 吉田建正, 木村和男 山川出版社

カナダ史 (新版 世界各国史)

カナダ史 (新版 世界各国史)

 

 History of Quebec - Wikipedia, the free encyclopedia

Quebec History 

"ケベック独立問題" カナダ人物列伝

PR
電子書籍を読むなら、Paper WhiteよりFireがオススメです(絶対!)