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フランスの北アフリカ植民地支配と経済依存構造の成立について

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旧宗主国フランスに依存する、不安定なマグレブ諸国

チュニジア、アルジェリア、モロッコを総称してマグレブ諸国(リビアとモーリタニアを含む場合もある)と言いますが、日本人にとっては馴染みが薄い地域です。

モロッコはサハラツアーやマラケシュ、カサブランカと言った町を巡るツアーで特に女性に人気があるようですが、アラブの春の発信地チュニジア、日揮の社員が襲撃され殺されたアルジェリア、リビア革命が起きカダフィが倒されたリビアなど、治安が悪いというイメージを持つ人もいるかもしれません。

これらの国々はヨーロッパ諸国、特に旧宗主国フランスとの関係は深いものがあります。

過去の支配し支配されという経験から反ヨーロッパ・民族ナショナリズムの声は強いですが、一方で植民地解放を終えて長い時間がたった今でも経済的にフランスに頼る部分が大きい。

今回はフランスの北アフリカ植民地支配とその間のマグレブ諸国の政治・経済を中心にまとめていきます。

 

 

1. 植民地以前の北アフリカ 

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1-1. オスマン帝国の支配下に入る北アフリカ

 16世紀初頭まで北アフリカには、独自のイスラム王朝が存在しました。

アルジェリアにはザイヤーン朝、チュニジアにはハフス朝、モロッコにはマリーン朝。

ところが、海洋国家として拡張するスペインが北アフリカに上陸し、海賊の基地として栄えていた北アフリカ各地を占領するようになりました。

北アフリカのイスラム王朝は東の大国・オスマン帝国に支援を求めます。オスマン帝国の軍勢でスペインは駆逐されますが、やってきたオスマン軍はそのまま北アフリカに居座ってしまい北アフリカの王朝を滅ぼしてしまった。

こうして16世紀半ばには北アフリカはオスマン帝国の支配下に入ってしまい、トップをトルコ系の軍人集団と、イスラムに改宗したキリスト教徒・ユダヤ教徒の海賊が実権を握り大多数のアラブ人・ベルベル人はその支配下に置かれる体制が作られました。

唯一モロッコだけは、マリーン朝の次のワッタース朝によってオスマン帝国の侵入を防ぎ、独立を保持しました。

 

 

1-2. オスマン帝国支配下の政治・経済

オスマン帝国支配下で、後に北アフリカの国々の運命を決定づけるいくつかの特徴が生じています。

 

1-2-1. 独自スルタンの存在

北アフリカ諸国はオスマン帝国に従属しながら、形式上デイ・ベイの称号をオスマン帝国のスルタンからうけることになっており、それぞれ独自にスルタンが存在しそれが支配の正当化の根拠になっていました

上は正統イスラムを標榜する一方、民衆に正統イスラムを伝えるウラマーの地位は低く、それゆえ土着信仰とイスラムが結びついたスーフィー教団が民衆の間に広まり、後の政治力学上大きな役割を果たすことになります。

 

1-2-2. アラブ人・ベルベル人の低い地位

オスマン支配下ではトルコ系や元キリスト教徒などの外国人が実権を握り、常備軍もトルコ系・スペイン系・黒人系が登用され、アラブ人とベルベル人は排除されました。

また政治的にも地位が低く、都市民であっても政治の中枢から除外されていました。それゆえウラマーの地位が低かったわけですが、後期に外国人常備軍が土着化するに連れて都市民の地位も上がり、ウラマーの地位も向上していきます。

また地方の部族組織は地方行政の末端組織として温存され、やはり国家権力の中枢から外されていきますが、後期になると政治的発言力を増し、しばしば中央政府を武力で攻撃するようになります。

 

1-2-3. 産業の中心が海賊

当時北アフリカの主力産業は、地中海を航行するヨーロッパ船を襲って乗組員を拉致し、その身代金を要求する「海賊業」でした。

当時海賊は北アフリカで花型の職業で羽振りもよく、彼らが落とすカネを中心に農業・軽工業・製造業が発達しました。町のトップ自らが海賊の場合もあり、まともに産業を興そうという意志もなかったと思われます。

それゆえ、チュニスやアルジェなど沿岸の海岸都市は大いに繁栄しますが、地方都市や農村は中世のまま発展しませんでした。地方は部族の力が強かったため、大土地所有者も出現せず零細農民が細々と畑を耕すのみで、土地の生産力は低く安定しており、社会構造の変化も遅々として進みませんでした。

 

 

2. 侵略と抵抗

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北アフリカは19世紀前半から外に拡張するヨーロッパ諸国の侵略を受けることになります。 それぞれの国でどのように征服と抵抗が行われたか。

 

2-1. アルジェリア

フランスがアルジェリアに介入するきっかけになったのは、1827年の「扇の一打事件」がきっかけだと言われています。

これは、アルジェリアから輸出された小麦の代金を巡る会議中に、ユダヤ人商人と結んだフランス駐アルジェリア大使がアルジェのデイ・フサインを愚弄し、それに立腹したフサインが持っていた扇で大使の頬を打ったという事件。

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1830年6月、フランス軍はアルジェから25キロ離れたシディ=フルージュの海岸に上陸。デイ・フサインの軍を打ち破り、すぐにアルジェ市街の要塞を落として市を包囲。フサインは翌月には降伏してしまいました。フランス軍はアルジェを本拠にして周辺を次々と陥落させ、占領体制を敷きました。

当時のフランスはウィーン反動体制の第一王政末期で、揺らぐ王政の威信を景気のいい対外戦争勝利によって回復する狙いと、アルジェリアの小麦貿易の独占を狙うマルセイユ商人の利害の一致によって始まったものでした。

フランスのアルジェリア植民地化は、マグレブ諸国の植民地化をドミノ的に引き起こしていくことになります。

 

2-2. チュニジア

フサイン朝のチュニジアは、変化する周辺各国の事態を受け、近代改革を実施することで独立を守ろうとしました。

特にエジプトのムハンマド・アリーに倣い、中央集権化を進めると同時に、国がトップダウンで経済活動に介入。常備軍の設置と大学の開設など、典型的な「富国強兵」「殖産興業」政策を実施しました。

ところが財政支出ばかりがかさみ、英仏の外債は積み重なっていく。それによって内部の改革派と守旧派の対立が激化し、地方の部族の反乱がきっかけで改革派は失脚。守旧派が勝利を収めたものの財政は破綻していたため、英仏伊の共同管理体制に置かれることになりました。

その後、改革派の政治家ハイルディーン・パシャが登場し、三国の勢力均衡を図って独立を維持しようとしますが、再び守旧派の介入で改革は頓挫。

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混乱するチュニジア国内を尻目に、列強は着々とチュニジアの分割を進め、1878年のベルリン会議で列強はフランスのチュニジアの保護領化を承認。

それに反発しチュニジア各地で暴動が発生しますが、治安維持と称してフランス軍が各地に展開しそのまま居座ってしまいました。

 

2-3. モロッコ

チュニジアは開国によって独立を守ろうとしましたたが、逆に鎖国をすることによって独立を守ろうとしたのがモロッコでした。

タンジャの港のみを開港して他の港を閉じ、貿易の独占を図って国力を蓄えようとしました。ところが1856年のイギリスとの通商条約、1859年の対スペイン戦争の敗北、1863年の対フランス協定など、なし崩しに列強の介入がなされ鎖国策は頓挫。

アラウィ朝の歴代スルタン(ムハンマド、ハッサン、アブデルアズィーズ)のもとで一連のチュニジア同様の一連の近代改革がなされ、行政改革・軍事近代化・産業開発・通貨改革が実行されますが、やはり多額の支出に悩まされ列強に財政的に従属させられるのは同じ道でした。

これに対し、スーフィー教団を中心にして「外国に従属するスルタン」を打倒すべく地方で反乱が相次ぐようになります。それに対し「国境の治安維持」と称し、フランス軍がなし崩し的にモロッコ領に侵入。次いでスペイン軍も北から介入。

モロッコの場合、チュニジアと違ったのは列強が会議によって一国統治の結論に達せなかったこと。1904年のマドリード会議でモロッコからイギリスが手を引き、スペインとフランスが勢力範囲を分割してモロッコ政府の「後見人」になる、という統治体制を敷きました。

↓ ピンクがスペイン影響下、黄緑がフランス影響下、赤がスペイン直轄領

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work by Cradel 

 

 

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3. フランス植民地体制下の北アフリカ

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 3-1. 植民地体制下の経済

フランスは積極的に北アフリカ経済に介入。ヒト・モノが大量に送り込まれ、現在にも連なる北アフリカとフランスとの経済的な結びつきを強めることになりました。

 

3-1-1. アルジェリア

19世紀以降、フランスは経済の発展と共に中間所得層が増加しますが、社会的なハシゴを登れない低賃金労働者が都市を中心に滞留。また農村は貧しく、これらの不満分子は社会不安の種になっていました。昭和初期の日本とよく似ています。

そこで政府は海外移住を推奨し、特にアルジェリアの農業植民に重点が置かれました

フランスはアルジェリアに土地私有制を敷き、フランス資本による大規模場農場がアルジェリア人部族が保有する土地を収奪していき、そこにフランス人農業移民が住み着いた。

それまで部族を束ねていた土地を奪われたアルジェリア人はバラバラになり、フランス人資本家の下で日雇いや派遣のような安い労働力として働かざるを得なくなりました。伝統農業の崩壊と部族社会の崩壊で、アルジェリア人は全体的に貧困化しました。

ところがマクロで見ると、1880年代からアルジェリア経済はワイン用ブドウの生産が軌道に乗り急速に発展していきました。

それに伴って建設された農業インフラの他、鉄道や道路網などのインフラが結ばれ商業ルートが発達し、内陸との鉄とリンの採掘が軌道に乗り始める。港に運ばれたブドウや鉄は船に乗ってフランス本国に輸出されました。

 

3-1-2. チュニジア

チュニジアでも状況は似たようなものでしたが、アルジェリアと異なる点は土地が個人入植のほうが先行し、フランス人とイタリア人の小農が多数入植したことでした。

チュニジア人が土地を奪われ、ヨーロッパ人小農の下で日雇いとして働く構図は変わらず、チュニジア人農民の貧困化が進みました。

一方、都市部では植民地以前から海賊で栄えた都市の商人や手工業者のギルドが保護領体制下でも強固に存在し続けました。

 

3-1-3. モロッコ

モロッコでは本格的な植民者の土地取得は第一次世界大戦後に起こり、1916年から政府入植が開始されました。

ただし、1906年のアルヘラシス条約の影響を受けてフランスとの排他的な特恵関係は作れず、モロッコはアメリカやイギリスとの経済的関係が強まることになりました。

 

3-2. ヨーロッパ人 vs マグレブ人

このように、基本的に北アフリカの植民地はヨーロッパ人がマグレブ人を支配するという関係で結ばれていました。

第一次世界大戦後の人口は以下のとおり(その他除く)

アルジェリア

 ヨーロッパ人 :72万人(12.4%)

 ユダヤ人   :7.4万人(1.3%)

  アルジェリア人:489万人(84%)

チュニジア 

 ヨーロッパ人 :15.4万人(7.4%)

 ユダヤ人   :4.8万人(2.3%)

  チュニジア人 :188万人(84%)

モロッコ

 ヨーロッパ人 :7.5万人(2.1%)

 ユダヤ人   :4.1万人(2.3%)

  チュニジア人 :337万人(95%)

 

おおよそ10%に満たないヨーロッパ人は、現地でのブルジョワ職を独占しており、例えば工場長がフランス人、現場監督や熟練労働者がヨーロッパ人、非熟練労働者が現地人といった姿が一般的でした。

 

1〜2%程度存在するユダヤ人は、マグレブ人よりは優遇され植民地経済の中間搾取者としての役割を与えられていました。すなはち、ユダヤ人を二流ヨーロッパ人として位置づけて社会に置くことで、ヨーロッパ人下層民とマグレブ人両方から憎悪を向かわせ、フランス支配にその矛先が向かないようにするための「犠牲の羊」でありました。

本当にゲスいですね…。

 

現地マグレブ人の大部分は農村居住者で、零細な自作農民がその大半でした。土地をヨーロッパ人に奪われたため日雇いのような仕事しかできずに大部分が困窮化していきました。

一方で、部族の共有地を私物化して大土地所有者になったマグレブ人も中にはおり、地主になった彼らは地代を大都市の不動産や商業に投資してブルジョワ化しました。植民地以前から存在した商工業ギルドの他、彼らの存在が民族的ブルジョワジーを構成していくことになります。

 

 3-3. 第一次世界大戦後の植民地の変容

第一次世界大戦が勃発すると一時的に、戦下に陥ったフランスとの関係が断絶。

日用品が入ってこなくなったため、マグレブ諸国で自給する必要が出てきて工業化が促進されることになりました。また戦後、フランス本国は政府資金が主に鉄道・港湾・電気などのインフラ部門に投入され景気の刺激策がなされて建築ブームになり、資材や生活必需品が大規模に輸出されて北アフリカも経済の好況期に入りました。

ところが1929年の世界恐慌の波は北アフリカにも押し寄せた。

小麦価格・鉱産物価格が軒並み下落し、工場・鉱山の閉鎖、土地の喪失で失業者が町に溢れかえってしまいました。特に農民の困窮化は深刻で、マグレブ人が志向する自給自足型農業の存在が困難になった。フランスも国内景気優先で農業の保護政策を取ったため、マグレブ産のブドウは売れなくなってしまった。

このような状況下で、マグレブに植民しようとする新規のヨーロッパ人移民は減っていきました。むしろ、フランス本国の労働者不足でマグレブから移民が出稼ぎに行かなくてはならなかった。

その結果、ヨーロッパ植民者の高齢化と都市化が進み、ヨーロッパ人人口が減ってマグレブ人人口が増えていきました。

さらに農村の困窮化で都市に流入するマグレブ人の人口が増え、都市にスラムを形成し貧困と犯罪の温床になっていった。

このような社会の危機を受け、 マグレブ人ブルジョワジーを中心に、マグレブ人の政治的地位の向上と全ての面での主体性の復活を求めた政治活動が活発になっていく。

それは長い時間を経てマグレブの独立運動に発展していったのでした。

 

 

 

まとめ

マグレブ諸国は伝統的に、ヨーロッパと対面した沿岸諸都市と、圧倒的大多数を占める農村という大きな2つの世界を持っていました。

基本的にそれらはお互い干渉せずそれぞれの圏内で完結できていましたが、それは政治的統合と経済的結びつきを欠いたもので、ヨーロッパ諸国の侵攻に立ち向かうには脆弱な政治的統合体でした。

中央の守旧派や地方の部族の反乱なども頻発しますが、それは基本的に「伝統的なマグレブ的秩序を守ろう」とするもので、いずれは破綻する運命を持っていたと言えると思います。

そしてそのような社会を利用・分割して上澄みをすすったのがフランスなどのヨーロッパ諸国で、確かに社会インフラなどを整え工業化を進展させ、経済発展を遂げさせますが、現代にまで繋がるヨーロッパ諸国への経済的依存をもたらしました。

地方や有力部族は中央政府に従わず、外国と結んでに懐を蓄え、一般民衆にまで富が落ちない。国を統制すべく独裁政権が登場するも、旧来のマグレブ的秩序を望む地方の反発は強く、そこにイスラム原理主義が浸透していく。

混乱する国に絶望した若者たちは、ヨーロッパを目指し暗い海にボートを漕ぎだしていく。オスマン帝国とフランス植民地は、現代のマグレブ諸国にも暗い影響を与えています。

 

 

 参考文献 世界現代史17 現代アフリカ史5 北アフリカ 宮治一雄 山川出版社

アフリカ現代史 (5) 北アフリカ (世界現代史17)

アフリカ現代史 (5) 北アフリカ (世界現代史17)

 

 

 

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