歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

世界を変えてしまった親子ケンカ・兄弟ケンカ(後編)

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不仲の家族の争いは世界史をどう変えたのか

前回に引き続き、世界史を変えてしまった親子・兄弟の争いをピックアップします。

前回はこちらを紹介しました。

  • クレオパトラ7世 vs コンスタンティヌス13世(プトレマイオス朝エジプト)
  •  カラカラ帝 vs ゲタ帝(ローマ帝国)
  • ロタール vs ルートヴィヒ(フランク王国)
  • エイレーネー vs コンスタンティヌス6世(東ローマ帝国) 
  • ヤロポロク1世 vs ウラジミール1世(キエフ公国) 

ご覧になりたい方はこちらよりどうぞ。

それでは後編いきます。

 

 

  

6. 武則天(母) vs 中宗(息子)<中国> 

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野心家の母と嫁に振り回された気弱な男

武則天(則天武后)は、14歳で唐の太宗の後宮に入ったものの疎んじられ、太宗の死後は出家を余儀なくされました。 

ところが次の高宗の治世、王皇后は寵愛を受ける蕭淑妃から高宗を遠ざけようと、出家先から武則天を呼び戻した。武則天が後宮に戻った後、確かに皇帝は蕭淑妃を遠ざけるようになったが、武則天ばかりを寵愛するようになりました。

武則天は巧みに皇帝を促して王皇后と蕭淑妃を殺害させ、隠然たる力を持つようになっていきました。武則天は自らの一族を大量に登用し反対派を弾圧。高宗はあまりに力を持ちすぎた武則天を廃しようとしますが、武則天にバレて後宮の奥に閉じ込められてしまう。高宗は最後は武則天の命令で治療も受けられずに死亡します。

 

次に皇帝の座についたのは、高宗と武則天の子・中宗。

彼は強すぎる母の力を削ごうと妃である韋皇后とその父・韋玄貞を頼りますが武則天派の反対にあい宮廷を追放されてしまう

次の帝位は中宗の弟である睿宗(えいそう)が就きますが、さらに気弱な弟は母の傀儡に成り下がり全く実権を持たないお飾りに過ぎませんでした。

この暴挙にいくつかの有力者が反武則天の乱を起こしますがいずれも失敗に終わり、武則天はいよいよ帝位に就く準備を始めます。

690年、武則天は国号を「周」に改め、自ら聖神皇帝と称し睿宗を皇太子に命じ、名実ともに皇帝にのし上がったのでした。

 

その後 

自らの権力のために夫や子でさえ排除してきたパワー・ママも、寄る年波、病で伏せがちになってきます。

とうとう武則天は宰相の張柬之を忠言を聞き入れを受け入れ、名誉職に退くことにした。宰相は子の中宗を呼び戻し帝位に付け、国号は唐に戻されました。

中宗はその後、韋皇后を信頼し韋一族をますます登用し、子の安楽公主も政治に参加させました。

ところが、韋皇后という女も武則天に負けず劣らず権力欲が強い女で、武則天の孫であり韋皇后の子である安楽公主も権力欲の塊のような男だった。

とうとう2人は夫・父の中宗を毒殺して朝廷を乗っ取ってしまいますが、母・武則天の傀儡だった睿宗は息子の李隆基と協力して2人を殺害。再び帝位に就きました。

李隆基はその後玄宗皇帝となり「開元の治」と呼ばれる唐の絶頂期を築き上げることになります。

 

 

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7. ヘンリ2世(父) vs リチャード1世(息子)<イングランド>

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 生粋の武人の父子対決

ヘンリ2世はイングランド・プランタジネット朝の国王。

彼はその治世で領土を拡大。イングランド本国に加えスコットランド、アイルランド、ノルマンディーを確固たるものにし、西南フランスの領土を持つアクティーヌのエレオノールと結婚したことで、アクティーヌ地方まで傘下に収め、イングランドを広大な強国に生まれ変わらせた傑物です。

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ところがそんな傑物の息子たちも父に似て血の気が多かったようで、長男ウィリアム、次男ヘンリー、三男リチャード、四男ジェフリー、五男ジョン、全員が父に対して反抗し反乱を起こしています。

長男ウィリアム、次男ヘンリーが歯向かってきた時には、まだ壮年で気力・体力ともに充分だったヘンリ2世は、それぞれ打倒することができましたが、三男のリチャードの反乱の時は既に初老に差し掛かっていた。三男リチャードは後のリチャード1世、通称リチャード獅子心王です。

もともとリチャードはフランスで育ちフランス王フィリップ2世と個人的にも親しい間柄でしたが、ヘンリ2世とフィリップ2世は領土問題で対立する間柄。

リチャードは元から、母エレオノールを幽閉する父ヘンリ2世への反抗心が強かったこともあり、フィリップ2世に乗せられてかはわかりませんが、反父王の兵を起こした。

1189年7月、父子の軍は真正面から衝突しますが、リチャードは持ち前の戦闘巧者ぶりを発揮し父ヘンリ2世の軍を打ち破り敗走させました。既に病にかかっていたヘンリ2世は、戦いに敗れた直後に死亡。リチャードはその2ヶ月後に31歳でリチャード1世としてイングランド王に即位しました。

 

その後

イングランド王リチャード1世は、すでに父王ヘンリ2世が名乗りを挙げていた第3次十字軍に遠征し、イスラムの英雄サラディンと激しい戦いを繰り広げ、エルサレム奪回はならなかったものの、ティロス、アッコン、ハイファ、アルスーフ、ヤッファといった沿岸部をキリスト教側に取り戻すことに成功し帰国しました。

帰国後にフランス王フィリップ2世に占領されていたノルマンディー地方や北部フランスまでを取り戻しますが、戦いの最中に矢傷を受けて死去。

次の王位はヘンリ2世の五男のジョンが継ぐことになりますが、「ジョン失地王」と揶揄されるほど戦下手だったため、リチャードが取り返した領土を根こそぎフランスに奪い取られてしまったのでした。

この親子ケンカは、後の英仏百年戦争や第4次以降の十字軍に至る国際情勢を作ったと言っても過言ではないかもしれません。

 

 

8. フビライ(兄) vs アリクブケ(弟)<モンゴル帝国> 

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 チンギス・ハーンの孫たちの大ハーン争奪戦

第三代大ハーン・モンケは、帝国のさらなる拡大を目指し、父トルイの四男のフビライに南宋の征服を、五男のフレグにペルシアの征服を命じました。

フレグは約7年でおおよそペルシアを征服し西アジアにモンゴルの楔を打ったのですが、南宋の征服はフビライの「西から囲む」戦略のため時間がかかっており、モンケは苛立ちを募らせていました。

怒ったフレグはフビライを南宋征服の司令官から外し、自らの軍を率いて南宋を攻めようとするも、その途上で死亡してしまいます。

大ハーンの突然の死に動揺が広がり、また本人も予期せぬ死だっため後継者の指定はなされておらず混乱必至な状態。

本筋であれば、遠征に出ておらずカラコルムの留守を預かっている六男アリクブケに次の大ハーンの資格があり、西方ではアリクブケ支持の声が早くも聞こえてきていました。そんな中で、遠征中でしかも前ハーンと対立していたフビライが第四代ハーンに名乗りを上げた。

フビライはすぐにモンゴル高原に帰還せず、前ハーン・フレグに仕えた将軍たちを懐柔し、武力的に有利にたった上でモンゴル高原に戻り、アリクブケの軍をことごとく打ち破り、アリクブケをペルシア高原に追放。正式に第四代ハーンに就任しました。

 

その後

フビライはその後、首都機能を大都(北京)に移し国名を大元と中国風に改め、 大消費地であり大生産地である中国を経済政策の中心に据え、東西の物流と人的交流を加速させ飛躍的な経済発展を成し遂げました。

一方で周辺各国への軍事遠征も続け、ミャンマー、朝鮮半島は征服しますが、ベトナム、ジャワ、日本遠征は失敗に終わりました。

フビライの勝利により、その後の世界がどれほど大きく変わったか、その影響は推量するにも大きすぎるほど大きなものがあります。

 

 

9. ジャハーンギール(父) vs シャー・ジャハーン(息子)<ムガル帝国>

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 一族全員敵!壮絶な王位継承戦争

シャー・ジャハーンはムガル帝国第5代皇帝で、かの有名なタージマハルを建設したことで名高い皇帝です。

中央アジアで興ったムガル帝国をインドで大国化させたアクバル帝は祖父にあたり、幼い頃から聡明だったフッラム(シャー・ジャハーンの若いころの名前)は祖父に目をかけられ帝王学を叩きこまれました。ところがフッラムの王位継承は容易ではなく、父を含む一族との戦いに明け暮れていました。

 

アクバル帝の死後、第4代皇帝になったのは父のジャハーンギールでしたが、病気で伏せがちなジャハーンギールに代わって政治の主導権を握るようになったのが后のヌール・ジャハーン。彼女は頭が相当キレる女性だったようで、夫以上の政治能力を発揮し混乱する内政を執りし切っていました。

ジャハーンギールの息子たち、長男フスロー、次男パルヴィーズ、三男フッラム、四男シャフリヤールはそれぞれ父王の死後の王位継承を狙って争いを始めますが、1619年ヌール・ジャハーンは前夫との娘ラードリー・ベーグムを四男シャフリヤールに嫁がせた。

王位継承争いから退けられたと焦ったフッラムは実力行使に出る。

父王にデカン高原の遠征を命じられたフッラムは、どさくさに紛れて兄フスローを殺害。その後、父王がフッラムの領地の地代の一部を四男シャフリヤールに与えられることになると、フッラムはこれに反発し父王のいる首都アグラを目指して軍を進めた

父王ジャハーンギールは激怒し、将軍マハーバト・ハンに命じ息子の軍と真正面から激突します。ところが多勢に無勢で戦況は苦しく、とうとうフッラムは父王に降参。デカン高原に戻り好機を待つことになりました。

宮廷ではジャハーンギールはますます弱り、将軍マハーバト・ハンが主導権を握っていました。

フッラムは状況の難しさを思いペルシア高原に亡命しようとしていましたが、なんとタイミング良く次男パルウィーズが死亡。

これを知ったフッラムはデカン高原に戻り、宮廷を牛耳るマハーバト・ハンに接触し、彼を取り込むことに成功。父王ジャハーンギールが死去すると、皇帝を宣言した四男シャフリヤールの軍勢を打ち破り、帝位に就きました。

 

その後

皇帝になったシャー・ジャハーンはデカン高原を中心に中部インドへの侵攻を進め、ムガルの覇権を拡大させることに成功。

さらにはヒンドゥーを弾圧しインドのイスラム化を推進しました。それに伴い、イスラム文化を保護し、タージマハルに代表される壮麗なインド・イスラム文化を花開かせたのも大きな功績の一つです。

晩年はかつての父王と自分のように、息子のアウラングゼーブと激突して敗れ、アグラ城に幽閉されて孤独の中で死亡しました。血は争えませんね。

 

 

10. ルドルフ・ダスラー(兄) vs アドルフ・ダスラー(弟)<ドイツ>

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兄弟ケンカから生まれた世界的スポーツシューズ・ブランド

兄ルドルフ・ダスラーと弟アドルフ・ダスラーは、共にバイエルン王国のヘルツォーゲンウラハの靴屋の息子。

弟アドルフは1920年に第一次世界大戦から帰還すると、父から学んだ靴製造の技術を活かしてスポーツシューズの生産を開始。4年後に兄ルドルフも参加し、2人でダスラー製靴工場をスタートしました。

アドルフの作ったスポーツシューズは高く評価され、アムステルダム・オリンピックやベルリン・オリンピックで多くのアスリートに靴を提供し、ダスラーのスポーツシューズの名声は国際的に広がりました。ダスラー社には靴の注文が殺到し、20万足ものスポーツシューズを製造したそうです。

第二次世界大戦が勃発すると、弟アドルフは約1年兵役に就きますが、故郷に戻ってドイツ国防軍のブーツの製造を行いました。

1943年のある日、ヘルツォーゲンウラハに連合軍機が飛来した。アドルフとその一家は、ルドルフが掘った防空壕に逃げ込んできた。既に防空壕にはルドルフとその一家が避難していた。それを見たアドルフはこう言い放った。

「汚ねぇ粗悪品が戻ってきやがったぜ」

アドルフは連合軍機を指して言ったのですが、ルドルフは自分のことを貶して言ったのだと思い込み腹を立てた。

ルドルフはきっと、かねてから優秀な弟の腕に劣等感を持っていたのでしょう。この時から兄弟間にはケンカが絶えなくなった。

1943年、兄ルドルフは徴兵され泥沼の東部戦線に投入され、後にアメリカ軍の捕虜になりSSのメンバーと疑われて捕虜収容所暮らしも経験。ルドルフは後に解放されて戻りますが、弟アドルフのことをすっかり信用できなくなっており、とうとうルドルフは家を飛び出して街の反対側に自分の靴製造会社を設立し「プーマ」と名づけました。一方残された弟は自分のニックネーム「アディ」と姓の「ダスラー」を足して「アディダス」を設立

共に世界的なスポーツシューズ・ブランドとして名を馳せることになります。

 

その後

 ケンカ別れした兄弟ですが、その後も仲直りすることはなかったらしく、互いに相手のブランドをライバル(敵)とみなして必至に争いを続けました。

1960年、ルドルフは西ドイツの陸上選手アルミン・ハリーに報酬を支払い、プーマのシューズを履いてオリンピックに出るように依頼。それまでアルミンはアディダスのシューズを履いていましたが、金を受け取ってプーマに履き替えてそれで優勝してしまった。

これ以降、アスリートに自分のとこの製品を使ってもらうマーケティングが定着してしまうことにもなりました。

 

 

 

まとめ

 歴史の裏には家族ケンカあり。といったところですね。

似たもの同士ほど憎悪を募ると言いますが、血が濃いほど憎しみも大きくなるのでしょうか。

そういえば仏教で親殺しをした者は無間地獄に落ちるとされているように、大概の宗教では親殺しを大罪とみなしていますが、それもそもそも親殺しが昔は多かったからかもしれません。同じ感じで、儒教では親に尽くすことが最大の徳とされていますが、それも実際のところ親に尽くさないやつのほうがが多いからでしょう。

親兄弟、仲が良いことに越したことはありませんが、それも人類が乗り越えようとして未だに乗り越えられないものの1つなんでしょう。

てか、動物の家族は仲いいのにね。人間は果たして進化したのか。

これもアダムとイブが禁断の果実を食ってしまったせいなのでしょうか。

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