アラブのカリスマの死、アラブ民族主義の黄昏
前編では自由将校団のクーデターから、スエズ戦争までをまとめました。
自由将校団の一員だったナセルは、クーデターにより王政を廃し革命政権を樹立させた後、自発的に動かない国民に絶望し、自ら強権の大なたを振るってエジプトを真の独立国に導こうと決意します。
その過程でイギリス軍のエジプト完全撤退を成し遂げ、またスエズ戦争に政治的勝利を収める過程で、アラブを中心に熱烈な人気を得、アラブ民族主義のリーダーとして担ぎだされるようになっていきます。
さて後編では、アラブ世界のリーダーとして頂点を極めますが、その後の挫折によって次第に勢いに陰りが出始めていきます。
エジプトが生んだアラブのカリスマ・ナセルの後半期です。
4. アラブ連合の挫折
4-1. アラブ連合共和国の設立
スエズ戦争によってアラブの英雄となったナセルを支持するアラブ民族主義者が各地で台頭し、アラブの政治の地図を塗り替えていきます。
その大きなきっかけとなったのが、エジプトとシリアの政治統合でした。
シリアは当時、政権の弱体化と内部対立によって国家解体の危機に面していました。シリアはアラブ民族主義を掲げるバース党の誕生の地であり、アラブ民族主義への支持が高く、民族主義者は国をまとめる解決策として、エジプトとの国家統合を選んだのでした。
当初ナセルはこの統合を「非現実的」であると断ろうとしましたが、シリア側の粘り強い交渉により次第にナセルもその気になっていきました。
1958年1月にナセルが提示した条件をシリア側が全て飲んだことで、両国は国家統合に合意。
深刻な分裂状態にあるシリアを統合するには、既存のシリアの政治勢力を温存していては不可能と考えるナセルは、ナセルの指導の元の「完全なる国家統合」を掲げました。
エジプトの諸政策がシリアに持ち込まれ、強力な独裁体制の元「エジプト流改革」がシリアで実行に移されることになりました。
4-2. レバノン内乱、イラクのクーデーター
このアラブ連合共和国の設立はアラブ諸国に大きな衝撃を与えました。
最初に体制が揺らいだのはシリアの隣国レバノン。レバノンは元々シリアの一地方でしたが、キリスト教マロン派が多い地方をフランスが切り取り、少数のキリスト教徒が優位な体制を構築していました。
アラブ連合共和国の設立によって、レバノンのアラブ民族主義者は連合への参加を求めて反乱を起こし、シャムウーン大統領をトップとするキリスト教徒勢力と対決しました。この反乱は後にアメリカ軍の介入により鎮圧されてしまいます。
次いで革命が起きたのはイラク。
当時のイラクは王政で、イギリスの影響下にありましたがエジプトの軍事革命に影響を受けたカースィムとアーリフの2人に将校に主導され革命政権が成立しました。
熱狂的なナセル主義者であったアーリフは、イラクのアラブ連合共和国への参加を打診しました。ところがナセルは、リスクが大きいとしてその提案を却下。
その後もアラブ連合への参加を目指すアーリフと、あくまで自立自存を目指すカースィムとの対立が生じ、カースィムがアーリフを国外追放すると、間もなくイラクはアラブ民族主義と一線を画し対立する姿勢を見せ始めました。
アラブ民族主義の理想に反する革命政権の出現はナセルにとっては許しがたく、ナセルはイラク国内のアラブ民族主義者に援助をし反革命政権の反乱を起こさせますが失敗。
これ以来、エジプトとイラクは革命政権同士で対立を深めていくことになります。
4-3. アラブ連合共和国の解体
アラブ民族主義の象徴であったアラブ連合共和国でしたが、統合からすぐにシリアで不満が高まっていました。
もともとシリアは豊かな農業国で自由主義的な経済が好まれる傾向にあったことに加え、政治も比較的自由な土壌が存在していました。
ところが統合後は、政治的イニシアチブは完全にカイロに牛耳られ、また「エジプト式」に全ての企業は国有化されてしまった。一般のシリア人からしたら、一方的に国がエジプトの植民地に成り下がり、エジプトのやり方を押し付けられる権威主義的統治にしか見えなかった。
1961年9月、シリア軍の一部がクーデターを起こし政府要所を制圧。ナセルの腹心アーメルを追放し、シリアの連合の離脱を宣言しました。
ナセルは当初軍を送って実権を取り戻そうとしましたが、途中で諦めてシリアの離脱を承認しました。
この失敗はナセルにとって大きな挫折であり、アラブ民族主義にとっても自らの理想がわずか3年半で瓦解したことは大きな衝撃でありました。
ナセルはこの失敗を教訓にし、反動勢力に対する容赦のない対応やさらに力強い民族主義政策の断行を心に決め、アラブの理想を追求しつづけることを宣言。
アラブ民族主義はその後も力を持ち続け、1962年にはアルジェリアとイエメンでアラブ民族主義の革命政権が成立し、1963年にはイラクとシリアでアラブ民族主義を掲げるバース党がクーデターにより政権を握りました。
5. ナセルの社会改革
ナセルは第三世界のリーダーやアラブ民族主義の旗手として有名ですが、元々彼が目指したのは「エジプトの改革」であり、アラブ民族主義はその副産物でしかありませんでした。
エジプトの改革は大きくは2つ。
一つ目は「政治的独立」。これはイギリス軍撤退やスエズ戦争、アラブ民族主義によって達成されることになりました。
二つ目のほうが重要でかつ困難。エジプト国内の社会経済構造を刷新する「社会改革」です。
エジプトは大英帝国の経済圏に組み込まれて以降、資本を外国人に牛耳られ、また外国人と結んだ大土地所有者と小作農との間には著しい経済格差がありました。
資本をエジプト人の手に取り戻し、経済格差を是正するのがナセルが目指した社会改革でありました。
(エジプトがイギリスの支配下に陥る過程はこちらの記事をご覧ください)
5-1. 国家主導の大プロジェクト
自由将校団のクーデター直後、ナセルは国家主導で様々なプロジェクトを実施していきました。
農地改革、工業化の推進、アスワン・ハイダムの設立など、資本主義の範囲内で上からの改革で農業国から工業化への転換を図ろうとしました。
スエズ戦争を契機に外国人の資本家は次々にエジプトから逃げ出していき、その遺産を接収することで「エジプト資本」を獲得に成功しました。
ところが海外に資金源を持つ資本が急速に国内を去っていったことでエジプトは資金繰りに苦しむことになります。
5-2. アラブ式社会主義への転換
打開策としてナセルは、国家が直接経済活動に介入する社会主義方式へと大きく舵を切ることにしました。
主要な企業は国有化され、また教育機関やメディア、労働組合も国の介入が入り、「限られた資金源を最も効率のいい方向に投資する」計画経済を実施。
ナセルはこのアラブ式社会主義をさらに徹底的に追求することになります。そのきっかけとなったのがアラブ連合共和国からのシリアの離脱。
シリアの離脱のきっかけは、シリア国内の資本家や大土地所有者が国有化に反対したからだと考えるナセルは、これら「反動勢力」には断固たる対応を取り、アラブ民族主義の追求と社会改革の両面の観点から社会主義政策を強力に推進する必要があると考えたのでした。
5-3. アラブ社会主義連合の創立
1962年5月、ナセルはシリア離脱後のアラブ連合共和国の歩む方向性を明文化した国民憲章を作成しました。
憲章では「自由・社会主義・統一」の実現をスローガンとし、公平に富が行き渡る社会主義の実現を目指すとしました。同時に政治の領域では新しく「アラブ社会主義連合」の創設が宣言されました。実際に連合に入らないと議員や労働組合の要職には就けず、国家と末端労働者との間に連合を立たせることで、農民や労働者を社会主義経済推進とに取り込もうとしました。
5-4. エジプト社会主義の成果
国民憲章によってさらなる社会主義の推進が決定されると、1963年から第二弾の国有化が進められ、軽工業を含む広範囲な企業の国有化が進められました。
これらの国有企業は国が定めた方針に従い、国が求める量の生産量をクリアする必要がありました。
さらに政府は工業化を推進し「全ての工業製品を自国で生産する」というスローガンのもと、軽工業から重工業まであらゆる工業品の国産化に乗り出しました。
その結果、五年間で40%、年間平均7%の国内総生産の目標のところ、政府発表で五年間37%、年間平均6.5%という悪くない成果を上げました。
ところが、雇用の拡大に伴う賃金の増加や、国産化に伴う設備投資に多額の資金がかかり、その割には生産された工業製品は国内消費のみで海外への輸出はできなかった。
また社会福祉の増大と、イエメンへの軍事介入による軍事費の増大も国庫を圧迫。
これを補うために海外からの借款や資金援助に頼らざるをえず、「かつてムハンマド・アリー朝が歩んだ道」がちらつき始めていました。
ナセルのエジプトの資金繰りをさらに悪化させるのは、1967年に勃発した第三次中東戦争です。
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6. 完敗に終わった第三次中東戦争
6日間戦争とも言われるこの戦争は、イスラエル軍が陸・空でエジプト軍とシリア軍を圧倒し、エジプトはガザ地区とシナイ半島をイスラエルに占領され、軍の80%を壊滅させられました。文字通りの完敗です。
この戦争の直接的な原因はシリアとイスラエルの関係悪化です。
元々シリアとイスラエルは水資源の利用で対立を深めていましたが、アラブ民族主義のイデオロギーの元シリアの強硬派はパレスチナのゲリラに対し資金援助をしており、バース党が政権を握ったシリアはイスラエルとの対決姿勢を強め、エジプトにイスラエルを叩くように主張し始めました。
当時エジプトは、アラビア半島のイエメンで戦争中でイスラエルと事を構える余裕はなく、シリアの要請に応じようとしませんでした。
弱腰のエジプトを非難するシリアの行動は過激化し、とうとう1967年4月にイスラエル軍とシリア軍の大規模な衝突が発生。ナセルは直ちにシナイ半島にエジプト軍を終結させ、シナイ半島に駐屯する国連緊急軍に撤退を要請しました。
国連は戦争の発生を危惧し一部の撤退のみを主張しますが、国内強硬派は全面撤退を主張。ナセルはとうとう国内強硬派の意見を採用し、国連緊急軍の全面撤退を要請。そして軍をシャルム・シェイフに集結させティラン海峡を封鎖してしまいました。
これによりイスラエルの物資を積み込んだ船の航行は不可能になり、イスラエルはこれを戦闘行為とみなし、イスラエル国内ではエジプト征伐の世論が高まった。
1967年6月5日、イスラエル空軍はエジプト空軍基地に先制攻撃をしかけ、3時間でエジプト空軍を壊滅させた。さらに陸でもイスラエル軍はエジプト軍を圧倒し、シナイ半島全てがわずか3日間でイスラエルの手に落ちました。
エジプトは4日後の6月8日に停戦に合意しました。まさに完敗です。
ナセルは茫然自失の国民の前に立ち、全ての責任は自分にあるとして陳謝し、大統領を辞任すると発表。後に起こった市民の「辞めないでデモ」を受けてナセルは前言を撤回しました。
前編でも紹介したこちらの動画の3:48秒の箇所から、ナセル辞任の動画と「辞めないでデモ」の模様が収められています。
公職に復帰したナセルでしたが、この敗戦のダメージは計り知れないほど大きかった。
虎の子の軍の80%が壊滅し、ただでさえ火の車だった台所事情は悪化の一途をたどった。
ナセルは軍の立て直しのためにソ連に支援を求めました。ソ連はそれに応じてエジプトに多数の兵器や技術者、軍事顧問を派遣しますが、これによりナセルがぶちあげてきた「積極的中立主義」「第三世界の旗手」は完全に崩壊し、大きく東側に依存する結果を招きました。
さらにはアラブ民族主義主義の大義も完全に挫折。アラブ民族主義の発信地・エジプトの威信は地に落ちました。
国内でも当然ながら大きな影響を与え、第三次中東戦争の敗北と経済的不振はナセルの個人的独裁と政権運営に問題があると主張する学生グループが大規模なデモが発生。
ナセルは彼らと面会し「自由な選挙の実施」などを約束しますが口約束に終わった。
そうこうしているうちにナセル本人の健康状態が悪化。
1970年9月、PLOのアラファト議長とヨルダンのフセイン国王の抗争の仲介の会談を終えて帰宅した直後、心臓発作で死亡しました。52歳でした。
まとめ
なんと責任感が強い男だったのでしょうか。
エジプトのみならず、アラブ民族全体の運命も自分の責任として抱え込み、民族の栄光のために奔走した生涯だったように思えます。
ナセルの政治は強権的な衆愚政治であると批判されることもあり、確かにその節はあるのですが、彼は自ら動かず快楽的で流されることしか知らないエジプト国民を導き、一刻でも早く強盛な国を作るにはそれしかないと思っていたのでしょう。
それに曲がりなりにも、それまで誰も成し遂げられなかったイギリス軍の撤退と外国資本の排除を成し遂げ、工業化を推進し、土地改革を成し遂げたことは成果といえるのではないでしょうか。
ナセルの跡を継いだサダトとムバラクは、ナセルの方針を転換し社会主義政策から自由主義政策に向かい、親米路線を打ち出し外国資本の力を借りて資金繰りを改善し経済発展を遂げようとしました。
ところが2011年の「エジプト革命」では、広がる貧富の格差と腐敗した政権に憤った民衆がムバラク政権をひっくり返してしまった。
ナセルが目指したエジプトの改革は、彼の死後40年たってもまだ成し遂げられてないようです。
前編はこちら
参考文献
世界史リブレット 人 ナセル アラブ民族主義の隆盛と終焉 山川出版社 池田美佐子
参考サイト
Gamal Abdel Nasser - Wikipedia, the free encyclopedia