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ナセル - エジプトの真の独立を目指した独裁者(前編)

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アラブ民族主義の英雄、革命家にして独裁者

 ガマール・アブドゥル=ナセル(1918-1970)はエジプトの軍人、エジプト共和国第2代大統領。

自由将校団の一員としてエジプト革命を起こし王政を廃し、共和制に意向させました。

第2代大統領に就任してからは、イギリスに経済的にも政治的にも依存するエジプトを脱し、真に独立したエジプトの建設を目指し社会改革を進めていくことになります。

その後のスエズ運河国有化宣言とスエズ戦争により、エジプトのみならずアラブを中心に世界的なカリスマ指導者として名を馳せます。

隆盛を見せるアラブ民族主義の中心人物として、アラブ人の連帯を図りますが挫折。また第3次中東戦争の大敗により虎の子の軍を壊滅させてしまう。

失意の中で軍の立て直しとアラブ連合の再結成を目指す中で、52歳という若さで心臓発作で死亡しました。

 

 1. 自由将校団のクーデーターまでの道のり

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 1-1. イギリス影響下に置かれたエジプト

ナセルは1918年1月に第二の都市アレクサンドリアで生まれました。

父は上エジプトの農民出身でアレクサンドリアの郵便局員。母親はアレクサンドリアの商家の生まれ。

しかし家庭の事情で小学校低学年から両親のもとを離れ、19歳で士官学校に入るまで叔父の家など各地を転々とする生活を送っていました。

ナセルが生まれて1年後の1919年、第一次世界大戦の終結後にエジプト全土で大規模な反英デモ・ストライキが発生。エジプトは1882年にイギリスの支配下に入った後から大英帝国の経済圏に取り込まれ、国民の大部分は徹底的な搾取を受けていました。1919年の反英運動は激しく、とうとう1922年にイギリスはエジプトの独立を認めました。

ところがそれは表面上のことであり、相変わらず国内にイギリス軍は駐屯していたし、資本の大部分は外国人によって牛耳られ、内情は植民地時代と全く変わりのないものでした。

国内ではエジプトの完全独立を目指す正統・ワフド党がイギリスに対抗し、国民の圧倒的な支持を受けて首相を擁立し政権を担いますが、イギリスはあの手この手で妨害し真の自立は遅々として進まず、国民は不満を高めていました。

 

1-2. 自由将校団のクーデーター

進まない社会改革に絶望し、特に若者は抜本的な政治改革なしには真の独立と貧富と格差の問題を解決できないと考え、ムスリム同胞団、青年エジプト党、民族解放民主運動(DMNL)といったイデオロギーや宗教の違いはあるが、急進的な政治改革運動を進めていくことになります。

ナセルは1937年に陸軍士官学校に入隊しますが、政治改革運動の盛り上がりに志を同じくし、同じ志を持つ陸軍の仲間たちとエジプトの政治改革について真剣に語り合っていました。

1949年、ナセルを中心として政治改革を目指す陸軍内の秘密結社「自由将校団」が設立されました。設立メンバーはわずか7人でしたが、1952年のクーデーターまでに陸軍内で100人の将校をメンバーに擁し、さらに陸軍内に多数のシンパ将校がいたそうです。メンバーの政治イデオロギーは様々で、ムスリム同胞団や青年エジプト党、共産党のメンバーもいたし、ナセル自身も過去にこれらの組織との接触もあったし団員だったこともありました。

ですが、政治改革を求める思いはイデオロギーの違いを超えて自由将校団を結びつけ、メンバーは拡大し、その影響力は次第に王やイギリスにも知られ危険視されるようになっていきました

ナセルら自由将校団のメンバーは、具体的な解決策としてクーデーターの計画をたて、第一次中東戦争の英雄ムハンマド・ナギーブを組織のリーダーとして迎い入れました。

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そしてとうとう1952年7月23日、当初の計画を前倒ししクーデーターを敢行。

将校たちはナセルのたてたシナリオ通り、首都カイロをはじめ各地の主要な拠点を制圧し、数時間後にエジプト全土を掌握しました。軍本部では、自由将校団に怪しい動きありと首脳部が緊急会議を行っており、そこに急襲をかけることで一網打尽に捕らえることができたのでした。

 

 

2. ナセル独裁体制の構築

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 2-1. ナセルの絶望と決意

クーデーターを成功させた自由将校団は、三日後にアレクサンドリアにある国王ファルークの王宮を囲み、退位と国外追放の最後通牒を突き付けました。国王ファルークはなすすべなく、荷物をまとめて船に乗り亡命先のイタリアに向かいました。

後にナセルが書いた回顧録によると、自由将校団の役割は国王を追放するところまでと考えていたようです。

政治家や民衆たちが自由将校団のクーデーターの後から付いてくると思っていた。

政治家達はこれまでのイギリスの傀儡から脱し、健全な民主主義の体制を構築する。

民衆たちは自ら新しいエジプトのために自ら進んで社会改革に身を捧げる。

ところが、ナセルが考えた「自ら考えて動く国民」は現れなかった。政治家は相変わらず腐敗にまみれ懐を肥やすことしか考えず、民衆は相変わらず阿呆で受け身で流されることしか知らない

ナセルは次第に、自分たち将校たちの他に政治改革を成し遂げる者はいないと考えるようになっていきました。

 

2-2. ナセルの政権掌握

クーデーター後、自由将校団は半年を期限として軍による暫定統治を始めました。

政治の面では汚職や腐敗を無くすべく、ワフド党とはじめ既存の政党に浄化を促しますが反発が根強かった。そこでナセルは憲法を停止し、政党も廃止し、暫定統治を3年間延長して革命評議会による変革の断行を決意しました。

1954年3月、表向きの大統領として国民の圧倒的な支持を受けていたムハンマド・ナギーブと革命評議会のリーダーであったナセルとの対立が表面化。

ナセルがナギーブを大統領から罷免すると、旧ワフド党のメンバーなど反革命評議会のメンバーらがナギーブの元に結集し、「民主政治の復活」を要求した。

ナセルは3月25日に「革命の終結」を宣言し、「革命評議会の解散」を宣言。それに対し、ナセルが支援した労働組合や解放機構が解散反対のデモを起こし、メディアも解散反対を訴えた。

 これを受けてナセルは「解散の撤回」を宣言し、再びナセルは政権の座を取り戻し世論も沈静化した。言うなれば自作自演なのですが、これによって革命評議会が支配する政権が成立し、軍・労働組合・教育機関・メディアも統制下に収めることに成功したのでした。

 

2-3. イギリス軍完全撤退

全権を掌握したナセルは、次に悲願であった「エジプトからのイギリス軍の完全撤退」の交渉に入った。

ナセル自身が代表を務めたエジプト交渉団は、1年間の粘り強い交渉の結果ついにイギリス軍の最終撤退を合意させました。

1954年10月26日、アレクサンドリアでイギリス軍撤退を祝う集会が開かれていました。ナセルが演説を始めたところ、反ナセルのムスリム同胞団の男が8発の弾丸をナセル目がけて撃ち込んだ。

間一髪助かったナセルは、恐怖と興奮が入り交じる会場で即興で演説を始めた。

もしガマール・アブドゥル=ナーセルが死んでも、私は満足である。なぜなら、あなた方すべてがガマール・アブドゥル=ナーセルであるから!あなた方が(エジプトの)名誉を守り、自由を守り、尊厳を守るから!…私の血はあなた方のもの、私の魂はあなた方のもの、私の心はあなた方のもの…

この時の動画がYouTubeにあったので貼り付けておきます。1分25〜55秒あたりです。

youtu.be

この演説は伝説的で、この経験でナセルは演説で人々の心をとらえるカリスマ指導者へのと変貌していったのでした。

この暗殺未遂事件を起こしたムスリム同胞団は政権によって徹底的に弾圧され、つい最近になるまで再生できなかったほどの打撃を受けたのでした。

 

 

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3. スエズ戦争とアラブの英雄ナセルの誕生

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3-1. 積極的中立主義

1956年に新憲法が国民投票で承認され革命評議会は正式に解散し、同時にナセルは大統領に就任しました。

当初、ナセルはアメリカと良好な関係を維持し、その支援の元で軍備増強を図ろうとしていました。ところがアメリカはそれに難色を示した。当時ナセルはインドのネルーやユーゴのティトーの提唱する積極的中立主義に賛同し始め、アメリカにもソ連にも属さない第三世界を作る道を模索し始めていました

1955年、イギリスはソ連の封じ込めを目的として、イラク、パキスタン、イラン、トルコを加盟国に「バクダッド条約機構」を成立させました。イギリスはさらにこの一翼にシリアとヨルダンを加え、中東沿岸を反ソ連で固めようとした。

アラブに新たな帝国主義が到来した。このままではエジプトの独立も危ういと察したナセルは、イラクに対抗し独自にシリアと相互防衛条約を締結。イギリスの覇権の拡大を阻止しました。

次いで1955年4月、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開かれました。この会議ではアジアやアフリカの新興独立国のリーダーたちが、アメリカ・ソ連のどちらにも属さない積極的中立主義を掲げることで合意し、ナセルは周恩来、ティトー、スカルノ、ネルーなどと肩を並べて第三世界のリーダーとして国際政治に華々しくデビューしたのでした。

志を同じくする世界のリーダーたちに大いに触発されて帰国したナセルは、東側の一員チェコ・スロバキアから武器を購入すると発表。アメリカを激怒させました。

積極的中立主義がエジプトの進むべき道と確信したナセルは、国内の外国勢力を一掃する鬼手「スエズ運河国有化」を断行するに至ります。

 

3-2. スエズ運河国有化宣言

チェコ・スロバキアからの武器購入に反発したアメリカは、アスワン・ハイダム建設の融資の撤回を通告しました。

これに対しナセルがとった行動に世界は度肝を抜かれた。

1956年7月26日、ナセルは大勢の観衆の前で「スエズ運河の国有化」を宣言したのです。

ナセルの発言を合図に待機していたエジプト軍精鋭部隊は直ちに行動し、直ちにスエズ運河会社の中枢を占拠。 これにエジプト国民は熱狂し、アラブの民衆もナセルの勇気を褒め称えました。

一方でスエズ運河の株の大半を保有するイギリスとフランスは激怒し、武力による介入を決意しました。これに同意したのが、エジプトを脅威と考えるイスラエル。

1956年10月29日、イスラエルのシナイ半島侵攻によりスエズ戦争が勃発。イギリス軍とフランス軍も「スエズ運河の保護」を名目に空爆を開始。エジプト軍は優位な戦力を有する3国連合軍の前に瞬く間に追い込まれ、敗北直前まで押し込まれた。

ところがアメリカのアイゼンハウアー大統領が介入し、3カ国の武力行使を非難しイギリスに経済的圧力をかけた。もう一つの大国ソ連もアメリカに同調し、3カ国は停戦を受け入れざるを得ませんでした。

戦闘には敗北したものの、ナセルは政治的に強大な3カ国を相手に勝利を収めた。

スエズ戦争は特にアラブの民衆を熱狂させ、各地にナセルを信奉するナセル主義者が急増。ナセルの掲げる反帝国主義・積極的中立主義に共感し、アラブ民族主義を掲げるバース党が台頭し、アラブ諸民族を統一する声が高まっていきました。

 

 

 

繋ぎ

1回のエントリーで終わらせる予定でしたが、長くなりそうなので2回に分けます。

クーデーターで実権を握ったナセルは遅れたエジプトの社会改革を成し遂げるために、自ら独裁者となって強権的に引っ張っていくことを決意。

国内改革の過程で振るった大なたが、予想に反して国外で大きな反響を呼び、瞬く間に国際的なリーダーに祭り上げられてしまい、アラブ民族主義のリーダーとしての神輿に乗ることになってしまいました。

この大きな流れの中では、ナセルでも抗うことは不可能な大きな流れであったでしょう。

後編ではアラブ民族主義運動の最大の成果と言える「アラブ連合共和国」の設立から、その挫折、その黄昏までを追っていきます。

 

後編はこちら

reki.hatenablog.com

 

 

 参考文献

世界史リブレット 人 ナセル アラブ民族主義の隆盛と終焉 山川出版社 池田美佐子 

ナセル―アラブ民族主義の隆盛と終焉 (世界史リブレット人)

ナセル―アラブ民族主義の隆盛と終焉 (世界史リブレット人)

 

 

参考サイト

President Gamal Abdel Nasser

Gamal Abdel Nasser - Wikipedia, the free encyclopedia

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