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売国奴と呼ばれる人たち:アンドレイ・ウラソフ

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ナチスに協力し「ロシア解放軍」の指揮官となった男

 アンドレイ・ウラソフ(1900-1946)は、ソ連の軍人。

ロシア革命勃発後から赤軍に加入して活躍し、独ソ戦が始まると数多くの武功を挙げ英雄になりました。 ところがスターリンへの不信からドイツ軍の捕虜になった後にドイツ軍に協力。

反スターリンのプロパガンダ活動に参加し、後に反ソ武装組織ロシア解放軍を設立。

「ロシア解放」を旗印に5万の兵力をもって東部戦線への参加を命じられますが、もはや敗色濃厚で絶望的な戦い。ウラソフは隊員と共にドイツを裏切り連合軍に投降し、西側への亡命を希望します。しかし「祖国を裏切った売国奴」として処刑されてしまいました。

 

 

1. 赤軍に参加、大出世を果たす

ウラソフは1900年、ニジノ・ノヴゴロド近くの農村の生まれ。

幼い頃から利発だったウラソフ少年は正教会の神学校で学んだ後に農業科学を学んでいましたが、1919年に貧しい者のための革命の理想を信じ赤軍に加わりロシア革命に参加。ウクライナやカフカス、クリミアで活躍して出世していきました。

 

1930年には共産党に入党。1938年から39年にかけて中国の蒋介石の元に赴き、軍事顧問として活動しました。帰国後は冬戦争に従軍する第99狙撃兵の師団長となり、緩みきっていた師団を叩き直し、「1940年で最も精強な部隊」に育て上げて名を高めました。

 

 

2. 対ドイツ戦に参加し大活躍

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少将に就任した翌年の1941年に対独戦が開戦すると、ウラソフの第4機甲師団はプシェムイシィル(現ポーランド領)の町を奪還する活躍を見せ、その功績が評価され第37軍司令官に任ぜられてキエフ防衛を命じられました。ウラソフは攻撃を主張しますが、ブジョーンヌイ元帥やティモシェンコ元帥は籠城策を採用した挙句、キエフを脱出しモスクワに逃亡。結果キエフはドイツ軍に包囲されウラソフの第37軍を含む4個軍が壊滅しました。

その代わり、ソ連軍は時間を稼ぐことができた。

ソ連軍はモスクワ防衛に時間をかけることができたことに加えて、ドイツ軍をロシアお得意の「真冬の戦争」に誘い込んだ。ドイツ軍は寒さと補給の欠乏に苦しみ、進撃は頓挫。ソ連軍はモスクワを死守することに成功しました。

モスクワの戦いでウラソフはジューコフ将軍麾下の第20突撃軍司令官として「重要な役割」を果たし、戦後に「レーニン勲章」を受賞しています

 

これは本当に正義の戦争なのか?

その後ウラソフはソ連を裏切りますが、前線の指揮官として戦いながら「ボリシェビキによるロシア支配」に疑問を持つようになった、と言います。

 

ボリシェビキは自分たちのことを農民や労働者の味方であると言う。この戦争は祖国を守る戦いであり、農民や労働者を守る戦いであると言う。

でも実際はどうだ?

戦争の前線で死ぬのは常に農民や労働者だ。彼らは祖国を守るためと信じて惨めに死んでいく。この戦争は彼らを守る為の戦いではないのか?農民や労働者たちは誰の為に戦っているのだ?

結局すべて、ボリシェビキの連中のためではないか。

ボリシェビキがロシアを支配し、あまつアングロサクソンと共謀して世界を支配しようとする汚い試みじゃないか。

 

上記はウラソフがナチスに渡った後の供述なので、当時そこまで考えていたかよく分かりませんが、程度の差はあれソ連指導部への反感を持つようになっていったと思われます。

 

1942年1月から次なる戦場であるレニングラード攻防戦に参加。ミッションは包囲されたレニングラードを外から攻撃しドイツ軍の包囲網を打ち破ること。

しかし攻撃は大失敗に終わり、ウラソフの率いる軍は取り残されて逆に包囲されてしまう。スターリンはウラソフを救うべく救援のための飛行機を出そうとしますが、ウラソフはこれを拒否。

ドイツの包囲網の中で、畜舎に隠れていたところ農民の密告によって1942年6月にドイツ兵に捕まり捕虜となってしまいました。

 

 

3. ドイツ軍のプロパガンダに利用される

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ウラソフはヴィーンヌィツャ(現ウクライナ領)のドイツ軍収容所に移され、ここで初めて自ら「反ボリシェビキ」であると宣言。

スターリンはロシア人民の敵であり、私はスターリン打倒のためにドイツに協力する、と言い放ったのでした。

ロシア皇帝と白軍をイデオロギーとする「ロシア自由運動」の指導者ウィルフリード・シュトリクト=スティークフィルドは収容所にいるウラソフと面会し、ドイツ軍を利用してボリシェビキ政権を打倒する構想にウラソフが使えると考えた。

ウラソフはベルリンに移動し、そこで他のロシア人反体制派とともに、ドイツ政府要人から「反ボリシェビキのロシア政府」の樹立とロシア人部隊の創設の草案を提示されました。

ウラソフはこれに同意し、「ロシア解放軍」の設立を宣言。

実際、まだ隊員は存在しませんでしたがナチスはこれをプロパガンダとして利用し、ウラソフの名前を使って「悪のボリシェビキ政権を打倒するロシア人部隊」を喧伝しました。

1943年4月には「なぜ私はボリシェビキと戦うのか」とう手記を発表。ここでウラソフはボリシェビキをロシア人民の敵であり、またアングロサクソンと世界を2分支配しようとしていると糾弾しました。

※Why Have I Taken Up the Struggle Against Bolshevism (全文はこちらから閲覧できます)

ウラソフは本気でボリシェビキに変わる新体制の構築を目指すようになりますが、彼をコントロール下に置きたいナチスによって政治活動を禁じられ、プロパガンダの一つのネタにしかなっていなかったのが実情でした。

 

 

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4. ロシア解放軍のトップに就任

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しばらく冷や飯を食わせられていたウラソフでしたが、1944年に東部戦線が崩壊しソ連軍が破竹の勢いで西進するに至り、 11月に「ロシア諸民族解放委員会」と「ロシア解放軍」を正式発足させ、ロシア解放を宣言。さらには「プラハ・マニフェスト」を採択し、汎スラブ主義を掲げ全スラヴ民族の解放とスラヴ民族議会の設立を目指すとしました。が、これはナチスによって拒否されてしまいました。

とはいえ、ヒムラーはドイツ軍が現在巻き返しにあっているソ連領を回復した際には、ロシア諸民族解放委員会が占領地域の正当な政府となることをウラソフに約束。 

1945年1月には、東方部隊の指揮権をドイツ国防軍から譲り受け、ロシア解放軍は2個師団5万の兵を持つ大部隊になっていました

 

 

5. ウラソフ一世一代の大博打・再裏切り

ウラソフ率いるロシア解放軍は、1945年2月に東部戦線に参加するためにナチス占領下のチェコスロバキアに進軍していました。

当時のチェコはナチスに対抗するチェコ人レジスタンスの活動が活発化しており、レジスタンス組織はウラソフに対し、同じスラヴ民族同士連携しスラヴの大同団結を図ろうと呼び掛けた

ウラソフは最初はその呼びかけを拒否した。

ですが、見渡してみるとソ連軍の侵攻はもはや止めようになく、西からもベルリン目指してアメリカ軍とイギリス軍が侵攻中である。

ウラソフは考えた。ドイツは連合軍に負ける。もはやこれ以上ドイツに協力してもしょうがあるまい。 ただし、一度ソ連を裏切ってしまった手前、何かしら「土産」がないと連合軍にも受け入れてもらえないだろう。

 

そこでウラソフは一世一代の賭けに出た。「再裏切り」です。

まずはウラソフはチェコ人レジスタンスの呼びかけに応え、麾下のロシア解放軍に命じた。「プラハからドイツ軍を一掃せよ」と。

プラハにいたナチス親衛隊は突然の攻撃に狼狽し、わずか2日でプラハはロシア解放軍の手に落ちました。その後連合軍がプラハに侵攻してくるも、すでにロシア解放軍によって「解放」された後であった。

ところが、ソ連軍に内通するチェコ人レジスタンスは命令を受けてロシア解放軍の逮捕を開始。一部のロシア解放軍の部隊は西側に逃げるためにソ連軍に降伏することを避けアメリカ軍に投降しますが、ドイツに協力したロシア人ということで、その判断は同じ連合国の一員であるソ連に一任されることになり全員、ソ連軍に引き渡されてしまった

ウラソフはピルゼンの東南40キロの地点でクルマの中で衣服の中に隠れているところをソ連軍に捕まり、ただちにモスクワに送還されルビャンカ刑務所に収監されてしまう。

その後1946年の夏に、他の11人の「裏切り者」と一緒に絞首刑に処せられました。

 

 

まとめ

ウラソフがどこまでロシア解放とボリシェビキ打倒に対して本気だったのか分かりませんが、個人の意思というものの無力さをまざまざと見せつけられる事例ではあります。

ウラソフが思う正義は確かにあったし、それはそれで理屈としては成り立つのですが、世界・世間の趨勢である巨大なコンテクストの前では、全くの無力だった。

1990年初頭だとウラソフはヒーローになれたかもしれませんが。

ソ連崩壊後、ソ連政府によって断罪されていたロシア人たちの名誉回復作業が行われ、ロシア解放軍の兵士たちも名誉回復したものの、当のウラソフ自身の名誉回復は却下されたそうです。

現在のロシア連邦でもウラソフは公式「売国奴」の一人として認識されています。

 

 

 参考サイト

 "Russian Volunteers in the German Wehrmacht in WorldWar II " MOCHOLA ORG

 "1943 - A A Vlasov,  Why have I taken up the struggle against Bolshevism?" www.korolevperevody.co.uk

Andrey Vlasov - Wikipedia, the free encyclopedia

 

 

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