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初期イスラム教団の拡大理由=「圧倒的武力」説について

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なぜイスラム教団は短期間で領土を拡大できたのか?

預言者ムハンマドから正統カリフ時代を経てウマイヤ朝が成立する過程で、

イスラム帝国は爆発的に拡大し、西はリビア砂漠から東はペルシア高原まで征服してしまった。その後ウマイヤ朝の元でさらに拡大し、イベリア半島やインダス川まで支配してしまいます。

なぜここまで急速に拡大したのかの理由は、ムスリムに言わせれば「正しい教えに人々が開眼したから」ということになります。

また、通常の説明だと「これまでの部族社会ではなく、宗教という新たな秩序を創造したから」というのが一般的であります。

ですが歴史学者の後藤明氏によると、「単純に人々が安全保障を求めたから」というのが主な理由だそうです。

個人的にこの説は非常に納得したので、今回要約してご紹介させていただきます。

 

記事三行要約

  • ムハンマドは自分に降伏した者は全てムスリムであるとみなした
  • だが多くの人は自分がムスリムだとは思っておらず、ムハンマドの安全保障を必要としただけだった
  • ムハンマドの死後、共同体を守るには対外戦争を続けるしか道はなく、領土がとんでもなく拡大していった

 

 

1. 支配を受けない自由な都市メッカ

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ムハンマドが生きた時代、メッカは外部の勢力に支配されない「自由都市」でした。

支配者がいないから税金もない。各地から商人たちが集って住まい、出て行く者もいれば、フラリとやってきて留まる者もいる。出入りはまったく自由で、制限は全くなかった

当時の地域の2大大国はペルシアとローマ帝国(ビザンチン)でしたが、メッカは両者ともに離れていたし、他のアラビア半島諸都市とも離れていたから、メッカは戦争をしたことがなく、軍隊と呼ばれるものすら持っていなかった

メッカはそういった、自由に人々が集い住まうという、現代の我々ではあまり想像ができない開かれた空間であったそうです。

 

そんなメッカは「クライシュ族」に属する町であったというのが一般的で、ムハンマド自体もクライシュ族のハーシム家の人と説明されます。

クライシュとはムハンマドの11代遡った祖先の名前で、確かにメッカはクライシュの子孫たちが多く暮らす町であったようです。

でも一般的に理解されているように「クライシュ部族」が支配していて族長の元で秩序が成り立っているようなイメージはどうやら違っており、当時のメッカには族長のようなものは存在せず、単にクライシュの子孫の数が多かった、という程度であったようです。

 

 

2. 「革命家」ムハンマド

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革命思想を広げるムハンマド 

4〜5世紀は地中海世界で「一神教」による革命が起こった。これまで信じられていたギリシア・ローマの神々の像は打ち壊され、神殿は廃墟になった。

 しかしアラビア半島は地中海世界の外にあったため、この革命の波は届かずに、かつてのギリシアやローマのような多神教の神々が息づいていた。メッカのカーバ神殿には、それらの多神教の神様たちの像が祭られていた。

ムハンマドは地中海世界で広がっていた一神教をメッカに取り入れようとしたのであり、言わば「革命思想」をアラビアに持ち込んだわけです。

 

今も昔も「新しい考え」に飛びつくのは若者たち。

ムハンマドはメッカの若者たちを集めて活動を始めました。大多数のメッカの人たちはそんなムハンマドを冷笑し、迷惑がった。イスラム教にハマった若者の家族は、息子や娘を怪しげな新興宗教から何とかして遠ざけようとした。

ムハンマドの家族は彼の行動に甘かった。特に叔父のアブー・ターリブは「あいつもいい大人だから」と言ってムハンマドの好き勝手にやらせており、メッカの人々の「迷惑してんだ、あいつ何とかしろよ」という声を無視していた。

 

ヒジュラ

ところがアブー・ターリブが死んでしまったので、身内の中からムハンマドに「そんな怪しげな活動をやめて真っ当に生きてくれ」と強く当たる者が出てくるようになった。

ムハンマドはメッカでの活動ができなくなると悟り、仲間たちをメディナに逃し始めた。メッカはあくまで自由都市だったので、誰も引き止めることができなかった。

しかし「要注意人物」になっていたムハンマドは話は別。身内の者もメッカの長老たちもムハンマドをメッカから逃すまいとした。だが、こっそりとムハンマドはメッカを後にしメディナに向かった。彼を追いかけて暗殺する試みは失敗に終わった。

 

ガズゥ(襲撃)とメッカ入城

メディナに拠点を移したムハンマドはメッカの隊商を襲った。1回の隊商の派遣に1億円はくだらない金額がかかっていたので、メッカの人々は仲間と富を守ろうと出撃した。指揮者はおらず勝手にバラバラ戦ったので、ムハンマドの軍には勝てなかった。

その後アブー・スフヤーンという男が現れ、ムハンマドへの復讐を呼びかけた。彼の指揮下でメッカの人々は再度ムハンマドと戦うも、はかばかしい成果は出せなかった。

そうこうしているうちにムハンマドが和平を提示してきた。メッカの3人の長老が和平案にサインをした。

その2年後、和平案が守られていないと難癖をつけたムハンマドはメッカに軍を進め、そのまま無血入城を果たした。

ムハンマドはカーバ神殿の偶像を打ち壊し、集団礼拝の指導者だけを任命し、政治的責任者を任命することなく引き上げた

メッカはその時もやはり、指導者のいない「自由都市」であったのです。

 

 

3. メディナの「イスラム化」

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預言者の名による平和

ムハンマドがメディナに移住した頃、 メディナは果てしない内戦状態にあった。

それぞれの勢力は合従連衡を繰り返し、最終的に二陣営に分かれて戦いに明け暮れていた。しかしその戦いには勝者はなく、人々は戦いに疲れ果てていた。

そんな中にやってきたムハンマドは、メディナに居住していたユダヤ人にとって「預言者の到来」と映った。戦いに疲れた人たちは、「預言者の名における平和」に飛びつき、それがメディナの世論のメインストリームになっていった

他所から来た怪しげな男が町を率いることに反対した者はいたが、趨勢に勝てずにメディナから出て行った。

ムハンマドは和平のための文書を用意し、自分とメディナの主だった連中がサインした。とうとうメディナに平和が訪れた。

文書では「神の使徒・預言者ムハンマド」とサインした。それを人々は認めた。

ムハンマドの論理では、彼を預言者と認めた人々は全てムスリムである。それゆえムハンマドの中では、メディナの人々は全員ムスリムとなった。 

実際にはメディナの人たちにそう自覚してる人はあまりいなかったはずだが、少なくともムハンマドは自分をメディナの代表であると位置づけた。

 

偽信徒の人々

ムハンマドはメッカの「不信徒」と戦うために、メディナの「信徒」たちに呼びかけた。しかし、5000名はいるはずのメディナの人のうち戦いに参加したのはわずか300名ほどだった。

ムハンマドはイラついた。

メディナは全員がムスリムの町なのに、なぜ戦いに参加しないのだ、と。

その後の戦いでは1000名が集まったが、戦いが始まる前に300名は逃げ帰ってしまった。ムハンマドは戦いを放棄した人たちをクソミソに罵った。

しかし人々は別に自分のことをムスリムだと思っていなかった

ムハンマドはこうした人達を「偽信徒」と呼んで、不信徒と同じ存在と認識した。ムハンマドは、場合によってはこれら偽信徒とも戦う決定権を神から委ねられている、とも思った。

ムハンマドは自分のことを預言者だと認めないユダヤ教徒をメディナから追放し、メッカの攻撃からメディナを守りぬいた。5年の間に露骨にムハンマドを預言者と認めない者は減っていったが、それでもメディナにはずっと彼を預言者と認めない人がい続け、ムハンマドは生涯そのような人びとを非難し続けた

 

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4. ムハンマドの「安全保障」を求める人々

ムハンマドはメッカと闘いながら周辺の民を味方にしようと努力した。

初めはメッカに味方をする者が多かったが、ムハンマドの軍が優勢になると周辺の民は彼に味方をするようになった。

その頃になるとメッカはかなり弱体化しており、内部のまとまりに欠け、征服が容易な状態に陥りつつあった。

そんな中、メッカの東方や南方に住む人達が2万の軍勢を集めてメッカを征服しようとした。ムハンマドはその前にメッカを制圧し、2万の軍勢と戦いこれに勝った。彼らの女・子どもと家畜の全てがムハンマドの戦利品になった。

全財産を失い盗賊と化した者たちは、オアシスの民を襲い富を奪おうとした。オアシスの民は根を上げてムハンマドを預言者と認めて助けを求めた。今度は盗賊たちはターイフの町を襲った。ターイフの町もムハンマドを預言者と認めて助けを求めた

 

このようにして、人々はアラビアに現れた軍事強者ムハンマドの「安全保障」を得るためにムハンマドを「預言者」と認め「信徒」になった。

ムハンマドは当初その安全保障に条件を付けなかったが、次第に一定の金品を要求するようになった。そして遠征に際し、参加と軍事費の負担を人々に求め始めた。

人々は困惑し、支払いを拒否した。

なぜならそれまで戦いや戦費の負担は自由意志であり、強制する権力はアラビアには存在しなかったのだ

ムハンマドの論理によると、ムハンマドを預言者と認める者はイスラムの信徒であり、その道に入った以上「神の道」で戦うことは義務であった。それを拒否する者は偽信徒であった。

 

それでも3万もの軍勢が集まり、シリアに遠征に向かった。そして砂漠のいくつかの都市を落として引き上げた。当時ペルシア帝国は度重なるローマとの戦争と内乱で疲弊しており、内政も混乱していた。

アラビアの諸都市は、新たに現れた軍事強者ムハンマドの庇護に進んで入った。ムハンマドは彼らも「ムスリムになった」とみなした。

もちろん、自分がムスリムになったなど全く思っていなかった者も多かった

そんな中でムハンマドが亡くなった。

 

 

5. 共同体を維持するための「ジハード」の始まり

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後継者を指定しなかったムハンマド

ムハンマドは生前、「最後の審判は間もなくやってくる」と言っていた。 終末はムハンマドが死ぬ前だと本人が思っていたので、死後の後継者は不必要だと思っていた

なので、最後の審判が来る前にムハンマドが死んだ時、人々はめちゃくちゃ焦った。

メディナの人々にとってムハンマドは社会の指導者であり、彼の強力な求心力があったからアラブの民を統合できていた。

ムハンマド亡き後、社会がバラバラになってしまったらメディナは周辺の民に侵攻され、富を失ってしまう。それは避けねばならぬ

メディナの人々は、アブー・バクルというムハンマドのごく初期からの同調者をリーダーに選び、「神の使徒の後継者(カリフ)」という称号を新たに作り人々の統合の象徴とした

 

「偽預言者」の乱立

ムハンマド時代に「ムスリムとなった」町や民は、預言者と認めた代わりに得ていた安全保障は預言者の死によって「無効になった」と理解した

そして独自に「預言者」をたててメディナを襲い、逆に税を取り立てようとすらした。

アラブ各地でこのような「預言者」が乱立した。ムハンマドの成功を見て、アラブの人々は政治的実力者は「預言者」と言うのだと思っていたから。

「預言者の正当な後継者」たるアブー・バクルは、こうした「偽預言者」の軍勢を討伐するために軍をあげて次々に破り、従えさせていった。

戦いに勝てば、おびただしい富が手に入る。強いイスラム軍に入れば富が手に入る。こう思った者どもが次々と馳せ参じる。

もし軍を解散してしまえば、再びアラブはバラバラになって、彼らはメディナに牙を剥くであろう。アブー・バクルは敵を見つけて戦いを続けざるを得なかった。

アラブの偽預言者がいなくなった時、アブー・バクルはメソポタミアとシリアにその軍勢を向け始めた。

そんな中、アブー・バクルが死んだ。

 

 

5. 軍の力で支配するアラブ人

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ペルシア侵攻

2代カリフ・ウマルは戦いを継続した。

アラブ軍はペルシア帝国に侵入し、 ペルシアの町町を支配下に収めた。ペルシア帝国に支払う税金と同額かそれ以下のものをアラブ軍に支払うことで、彼らは安全保障を得た。

アラブ軍はペルシア帝国軍と戦いを繰り広げ、何度か敗戦の憂き目に合うものの、とうとう大国ペルシアを滅ぼしてしまった。アラブ軍は信じられない程の膨大な富を手に入れた。

 

シリア・エジプト侵攻

次にアラブ軍はキリスト教徒が多いシリア、次いでエジプトに侵入した。

当時ローマ皇帝は「三位一体説」の教条を統一したものの、それに反対する単性論派も根強く、皇帝に弾圧を受けていた。

アラブ軍は特に弾圧を受けるキリスト教単性論派に歓迎された。ローマ皇帝は討伐軍を出すも、散々に負けて帰ってきてしまった。

アラブ軍は税さえ支払えば、都市や地域社会の内部には干渉せず、各地に軍事基地を設けてアラブ軍人を住まわせ、帝国の安全保障を確保した。

社会の秩序を守る者が変わっただけで、他の社会は全く何も変わらなかった

 

カリフ・ウマルは帝国のすべてを束ねようとせず、「軍事指導」のみを行う存在であった。強いアラブ軍に入れば富が手に入るとあって、続々と志願兵がやってきた。

ウマルは彼らを束ねて軍事基地に住まわせて戸籍を登録し、一種の年金制度を設けた。

そうして「仕事」である遠征に向かわせ、北アフリカ、ペルシア高原、中央アジアと転戦させた

3代目カリフ・ウスマーンも基本的にはウマルのやり方を踏襲した。

4代目カリフ・アリーの時に内乱が起き、メッカのアブー・スフヤーンの一族で、ムアウィーヤがアリーを打ち破り帝国を乗っ取り、ウマイヤ朝という王朝を開くに至ります。

 

まとめ

通常の説明では、ムハンマドは「これまで部族で繋がっていた社会に、信仰の繋がりという新たな秩序をもたらした」と説明されます。

ところが後藤氏によると話はそう単純ではなく、そもそも当時のアラブは部族社会などではなく、一人一人がかなり独立していった。メッカ自体も独立した人たちが集まる町であった。イスラムの教えは「一人一人が神と契約する」ことにあり、それは当時のアラブの状況の反映ではないか、と。

そしてそのような秩序や思想を皆が認めたからアラブ帝国が拡大したのではなく、「ムハンマドの軍がメチャクチャ強かった」から

人々は安全保障が与えられるのであれば、別にイスラム教だろうが、キリスト教だろうがどうでも良かった。実際にムハンマドの生存中も死後も、イスラムの教えを平然と無視する者が大勢現れている。

そして一度作ってしまった共同体を維持するためには、外に敵を作って勝ち続け、膨大な富を与えて満足させてやるしかない。シリアやエジプトでアラブ軍が人々にイスラムの教えを強制しなかったのは、目的が「イスラムの拡大」ではなく、「富の強奪」にあったから。

このような拡大する一方の共同体は、いずれどこかでブレーキがかかる。それが4代カリフ・アリーとムアーウィヤの抗争であった。

そしてそのような構造になってしまったのは、そもそもムハンマド自体が「イスラム共同体」自体がこんなに長く続くと思っていなかったから

もし最後の審判がもっと後だと思っていたら、急速な拡大をせずにじっくりとメディナで教えを広めて後継者を育て、そこから各地に拡大させる戦略を取ったのではないか。

 

確かに、現金な人々が「神の道」のような抽象的なものを中心に集まるとは考えにくく、イスラムに入ると安全保障を得られてカネも手に入ったから、爆発的に広がっていったと考えるほうが納得感があります。 

詳しくは後藤氏のこれらの著作をご覧ください。

メッカ―イスラームの都市社会 (中公新書 (1012))

メッカ―イスラームの都市社会 (中公新書 (1012))

 

 

ビジュアル版 イスラーム歴史物語

ビジュアル版 イスラーム歴史物語

 

 

参考文献  シリーズ 世界史への問い7 権威と権力 岩波書店 

 第1章 ムハンマドと初期イスラーム世界の権力 後藤明

権威と権力 (シリーズ 世界史への問い 7)

権威と権力 (シリーズ 世界史への問い 7)

 

 

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