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スワヒリの奴隷商人ティップー・ティプの生涯

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 Photo by DidierTais

コンゴ南東部を支配したアラブ商人の数奇な人生

ティップー・ティプ(1837-1905)、本名ムハンマド・ビン・ハメッドは、東アフリカ・ザンジバル生まれのアラブ人。

若くして商売の道に入り、類まれな商才とカリスマ性で奴隷や象牙貿易で大成功を治めて東アフリカ屈指の大商人にのし上がりました。商売のみならず私兵を抱えて内陸のコンゴ南東部を支配し、ある種の支配者の地位にまでなりました。

ところがアフリカに押し寄せる欧米列強を食い止めることができず、最後はイギリスの手先の状態となり失意の中で死んでいます。

ティップー・ティプの人生を辿ると、当時の東アフリカのアラブ人、アフリカ人、ヨーロッパ人の絡みあった利害関係、一筋縄では評価できない複雑な状況が浮かび上がってきます。

 

 

1. 東アフリカに進出するアラブ商人

東アフリカのインド洋沿岸諸都市は、古代から長い間アラブ商人と交易を続けてきました。特に栄えたのがキルワの町で、12世紀以降に内陸部の金の産地を抑え、アラビア半島と東アフリカ沿岸の交易圏を独占して栄えました。

15世紀以降にポルトガルがインド洋に進出して東アフリカ沿岸を支配。キルワもポルトガルに軍門に降りますが多くの地元商人は、現地のニーズを無視したポルトガルの交易ルールにそっぽを向き、団結してポルトガルを駆逐してしまいました。

 ※ここのあたりの歴史は詳しくは以下の記事をご覧ください。

reki.hatenablog.com

 

交易ルートを牛耳るアラブ商人

ポルトガルの後に東アフリカ交易を牛耳ったのは、アラビア半島・オマーン出身のアラブ人。

オマーン王サイイド・サイードはオマーン商人を先頭にして東アフリカの権益を獲得し、沿岸各地に要塞を築き支配を確立。首都をオマーンからザンジバル島に移し、「オマーン海上帝国」を築きました。

アラブ商人は沿岸に商館を構え、大規模なキャラバンを内陸に送り出しました。商品は武器やビーズ、綿布など。内陸部の現地商人に会うと、それらと象牙と奴隷を交換し沿岸に戻ってくる。そしてそれらを商館を訪れるフランス商人やインド商人に売り渡す。このような交易でアラブ商人は巨万の富を得ていました。

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キャラバンのスタートはザンジバルの沿岸のパガモヨ。

そこから内陸に行きザカラ族、ルル族を通り、ニャムウェジ族の中心地ウニャニャンべに到達する。そこから西に行きタンガニーカ湖沿岸のウジジに達するルートとと、北上しビクトリア湖南部のスクマ族の土地に行くルート、さらに北西に行きカラグウェ王国を経由し、ガンダ王国に到達しました。

現地のアフリカ人商人もアラブ人に対抗しようとしますが叶わず、次第に内陸部のウジジやウニャニャンべにもアラブ人商人が住み着くようになっていきます。

※ここのあたりの歴史は詳しくは以下の記事をご覧ください。

reki.hatenablog.com

 

 

2. 大商人ティップー・ティプの誕生

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ティップー・ティプの最初のキャラバン

ティップー・ティプはザンジバルのストーンタウンに近い農村部の生まれ。

母親はマスカット・オマーンの支配層の家柄で、父は早くから沿岸貿易に従事していた家柄のスワヒリ人。

商人であった父親から商売の手ほどきをうけ、18歳ごろ父と一緒にバガモヨからウジジまでのキャラバンに参加。それから父と分かれてタンガニーカ湖南部のウルアまで独力のキャラバンにチャレンジし大成功を治めました

どうやらこの商売はかなり荒っぽかったらしく、ウルアの首長と敵対したため戦って撃退し、商品の象牙を半ば略奪する形で富を手にしました。

彼はこの商売(遠征?)の途上で、イギリス人探検家リヴィングストンと出会い、友人となっています。

 

コンゴ東南部を支配下に治める

こうして最初の富を入手したティップー・ティプはインド商人から資本を引き出し、綿布やビーズを買い付けたり、沿岸部でポーターを手配したり、キャラバン交易に必要なコネや情報を得ていき、次第に頭角を現していきます。

最初のキャラバンから15年後には、数百人の隊員を抱える大商人にまで成長していました。

1870年代以降、ティップー・ティプは内陸部の交易路に拠点を築いていき、首長たちと時には脅し、時には懐柔で関係を作っていきビジネスを拡大していきました。

そしてとうとう、これまでアラブ商人が足を踏み入れてなかった、タンガニーカ湖西部(現在のコンゴ東南部)に進出。現地の首長と主従関係を取り交わし、一帯を自分の勢力圏と確保してしまいました。

コンゴ東南部はいわゆる「ブルーオーシャン」であり、象牙も奴隷もうなるほどある。

ところが色々なことが未整備であった場所なので、制度をゼロから作るしかない。

ティップー・ティプはコンゴで獲得した商材を沿岸部まで運ぶための人材の確保、交易路の安全を図る外交交渉、支配権の治安維持・各種行政業務に忙殺され、10年もの間沿岸部に戻ることなく内陸部に留まりました。

現在でもコンゴ東南部はアラビア語が通用する地域があるらしく、それはティップー・ティプがアラビア語を地域に普及させたからです。

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1876年にイギリス人探検家ヘンリー・スタンリーと友人になり、道中の道案内をしている他、ガイドを付けて安全に沿岸に送り届けるなどしました。

12年後、ティップー・ティプはスタンレーと違った形で再会することになります。

 

 

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3. ニャムウェジ族のミランボとの関係

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「アフリカのボナパルト」ミランボ

現在のタンザニアで「アラブ商人と対等に渡り合い、アフリカ人自身の富と繁栄を守った」として評価される人物が、ニャムウェジ族の族長ミランボという男。

ニャムウェジ族は古くから東アフリカ沿岸交易を担ってきた歴史があり、進出するアラブ商人と利権を巡って鋭く対立してきました。

ミランボはニャムウェジ族の首長国「ウリャンフル」の第十代首長で、強力な統率力で「ルガルガ」と呼ばれる武装組織を率いて周辺各地を侵略。1871年ついにはアラブ人の長距離交易の拠点タボラを支配下に入れてしまった

ザンジバル国王が支配するアラブ商人の交易ネットワークを分断することに成功したミランボは、領域を通過するアラブ商人に多額の通行税をかけて莫大な富を得ることに成功しました

彼の軍団「ルガルガ」は屈強なニャムウェジの男で構成され、ミランボの指揮の元恐れを知らず突進していく。これを見たヘンリー・スタンリーはミランボを「アフリカのボナパルト」と呼びました。

 

ティップー・ティプとの関係

ミランボは徹底した反アラブ人政策を採り、アラブ人は殺すか、カネを絞りとるの2択しかなかったのですが、そんな彼が唯一友好的に接したアラブ人がティップー・ティプでありました。

ティップー・ティプの父方の家系はスワヒリ人で半分アフリカ人の血が流れているという信頼感もあったし、大きかったのはティップー・ティプの祖父がミランボの祖父と知り合いで、ミランボの祖父が首長に就任するにあたって多大な協力をしたらしい。

そういうわけで、ティップー・ティプは他のアラブ商人よりも安全に、かつ安価に大量に商品を沿岸部に卸すことが可能であり、一気にアラブ商人のトップの座に躍り出、ザンジバルのスルタンの信頼をも得たのでした。

 

 

4. 欧米列強の進出

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ヨーロッパとの対決の準備

1882年、ティップー・ティプは約10年ぶりにザンジバルのストーンタウンに戻ってきました。

ところが、東アフリカ沿岸の状況は10年前と様変わりしていた。

まずヨーロッパで奴隷交易が禁止され、大々的に奴隷を販売できなくなり、インドなどへの密売ルートで急場を凌いでいる状態。加えてベルギー、ドイツなどヨーロッパ諸国の船が東アフリカ沿岸にたびたび現れ、進出の機会を伺っていた。

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ザンジバル王バルガッシュはティップー・ティプと会談しました。

今まさに、ヨーロッパ列強は東アフリカ沿岸の首長たちを自分たちの陣営に引き入れ、本格的に進出しようとしていること、それを防ぐには各地の首長たちをザンジバル王陣営に引き留める必要があること。そのために現地の首長たちに顔が効くティップー・ティプの力がどうしても必要だ、とのこと。

バルガッシュ王はティップー・ティプに武器と弾薬を与え、内陸部に派遣しますが時既に遅し。ティップー・ティプの影響圏だったコンゴ東南部は既にベルギー王レオポルド2世の手に落ちており、ニャムウェジ族の土地もドイツの手に落ちていた

ティップー・ティプはどうしようもできず、1886年にザンジバルに舞い戻りました。

 

崩壊するティップー・ティプの国

ストーンタウンの宮殿に戻ってみると、ティップー・ティプを迎い入れたのはバルザッシュ王ではなく、12年前に内陸部で出会ったイギリス人ヘンリー・スタンリー。

バルガッシュ王はすっかり打ちひしがれて戦意を失い、イギリスの傀儡に成り果てていた。

スタンリーはティップー・ティプに、エジプト領スーダンでマフディー軍に包囲されているドイツ人総督の救出作戦への参加を依頼。もし成功すれば、もともとティップー・ティプの領土だったベルギー領コンゴ東南部の「総督」の地位を充てがってやる、というものでした。

ティップー・ティプはスタンレーに同行してケープタウン経由でコンゴ川の河口に向かい、そこから内陸へと出発しました。ティップー・ティプの兵の士気は低く、遠征は遅々として進まずグダグダなまま終わったようです。

そうこうしているうちにコンゴの完全掌握を狙うベルギーのレオポルド2世が、南東部のティップー・ティプの軍勢を排除しようと侵攻を開始(コンゴ・アラブ戦争)。

ティップー・ティプの私兵は各地で打ち破られ、砦も次々と陥落。2年間の戦争でコンゴ南部に持っていたティップー・ティプの権益は全て、ベルギーに奪い取られてしまいました。

1890年、疲れ果てたティップー・ティプはザンジバルに戻り現役を引退。生涯をかけて築いてきた自らの国が刻一刻と削れていく様を見ながら、1895年にマラリアで死亡しました。68歳の波乱万丈すぎる人生でした。

 

 

 

まとめ

1人のアラブ商人の立志伝でありましたが、なかなか複雑です。

コンゴ東南部に商売を拡充したといっても、奴隷貿易なのでコンゴの原住民をさらってヨーロッパ人やインド人に売りさばいていたわけなので、決して褒められたもんじゃないです。ニャムウェジ族だってその奴隷貿易の中間マージンで儲けていたわけだし。

とはいえ、それを止めさせたヨーロッパが偉いかというと全くそんなことなくて、その後ベルギー領コンゴの残虐非道な支配が行われ、イギリス領東アフリカの分割支配と階級構造が確立しアフリカ人は相変わらず苦しい身分に甘んじざるを得なかった点で、単に支配者と支配のやり方が変わっただけとも言えます。

ティップー・ティプの生涯を追ってみた時、痛快な立身出世の物語と、何とも言えない後味の悪さを同時に感じる、何とも複雑な気分になるのです。

 

 

参考文献

世界現代史14 アフリカ現代史Ⅱ 東アフリカ 吉田昌夫 山川出版社

Brode, Heinrich. Tippoo Tib: The Story of His Career in Zanzibar & Central Africa. Translated by H. Havelock with preface by Sir Charles Elliot. London: Arnold, 1907

Mirambo - Wikipedia, the free encyclopedia

Congo Arab war - Wikipedia, the free encyclopedia

 

スワヒリ都市の盛衰 富永智津子 山川出版社

スワヒリ都市の盛衰 (世界史リブレット)

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