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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

ロシア革命中に勃発した、暴動・反乱・反革命事件

ロシア 東ヨーロッパ 中央ヨーロッパ 中央アジア モンゴル アメリカ

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革命の混乱中に起きた反乱や民族蜂起の数々

 現代のシリアがそうであるように、社会統制のタガが外れると中央の政治抗争だけでなく、国内のあちこちで不満分子による反乱や少数民族などの分離運動が起こり、そこに外国勢力が入ってきてだんだん対立構造がねじれて複雑化していくものです。

1917年に起きたロシア革命がもたらした混乱も凄まじいものがあり、ロシア帝国の擁護者による反乱や、周縁部の少数民族による反乱や独立運動、諸外国の介入をもたらしました。

ソ連はあちこちで起こったそれらの混乱を武力でほぼ全て平らげて、表面上は平安をもたらしたのですが、では実際にどのような混乱があったのでしょうか。

 

 

1. ニコライ・ユデーニチ将軍の「北西ロシア政府」

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 ロシア帝国復活を掲げ赤軍と戦い敗れた将軍

ニコライ・ユデーニチ将軍はロシア帝国の由緒正しき軍人家庭に生まれ、日露戦争や第一次世界大戦に従軍し活躍した男で、大国ロシアの信奉者であり、熱烈な愛国主義者でした。

1917年に二月革命が起きると、オスマン=トルコと戦っていたユデーニチは臨時政府に司令官に任命されますが、ボリシェヴィキのロシア支配に反対しフィンランドに亡命。ヘルシンキで「ロシア委員会」を設立し、赤軍からペトログラードを奪還すべく白軍を組織しました。

1919年からユデーニチはロシア北西部から軍事行動を起こし、瞬く間にプスコフ、ハンブルク、クラスノーセロー、ガッチーナを制圧。この軍事的勝利を背景に彼は「北西ロシア政府」の樹立を宣言。反ボリシェヴィキ勢力の結集を呼びかけました。

しかし次第に赤軍に勢力を奪い返され、共同戦線を張っていたエストニア軍は赤軍と妥協し始めたため、孤立したユデーニチは結局エストニア領内に押し戻され、エストニア政府により逮捕されました。

その後フランスに亡命し、ニースで客死しています。

 

 

2. ロマン・ウンゲルンの極東反乱

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 モンゴルを拠点にロシア帝国復活を夢見た男

ロマン・ウンゲルンはロシア帝国領内のバルト・ドイツ人の家庭に生まれ、軍事学校で学んだ後日露戦争に従軍するために東へと向かいました。そこで出会ったモンゴルやブリヤート、チベットの仏教の文化に魅了されました。

第一次世界大戦ではプロイセンで戦いますが、革命が勃発すると東へ逃れ、日本が支援するグレゴリー・セミョーノフの指揮下に入りました。シベリア出兵が起こるとセミョーノフはザバイカル州に反革命地方政権を樹立。ウンゲルンはダウリア地方の知事になりました。

ウンゲルンはその後モンゴルを征服するためにロシア人、モンゴル人、ブリヤート人の民兵隊を組織し、首都ウルガ(現ウランバートル)を占領する中国国民党軍を駆逐。モンゴルのラスト・エンペラー、ボグド・ハーンを帝位につけ独裁者としました。

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ウンゲルンは日本やイギリスの支援を得ながら白軍を組織し、西に攻め上がり再びロシア君主制を復活することを夢見ていました。しかしウンゲルンの時代は恐怖政治が支配しており、その統治は過酷極まりなく、少しでもボリシェヴィキの疑いがあるものは容赦なく殺害されました。あまりに残虐な統治であったためウンゲルンは「血の白い男爵」として知られるようになりました。モンゴル人はウンゲルンを打倒するため、モンゴル人民党のチョイバルサンを中心にしソヴィエト赤軍に支援を依頼。

1921年ウンゲルンの軍は赤軍の前に敗れ、ソヴィエト政府によりすぐに処刑されました。

 

3. チェコ軍団蜂起

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 シベリア出兵の大義名分となったチェコ・スロヴァキア人部隊の反乱

チェコ軍団は、元々オーストリア・ハンガリー帝国軍に所属していたチェコ人とスロヴァキア人の混成部隊で、オーストリアの支配から祖国を奪還させるという理念の元、多くの男たちがロシア帝国軍に投降しロシア軍として戦っていました。その数は革命勃発時には約6万名もいたそうです。

革命が起こりソ連が戦線から離脱すると、チェコ軍団は西部の連合軍に加入し祖国独立のために戦おうと考えましたが、東部戦線はドイツ軍が精強で通過できない。そのためシベリア経由で太平洋を渡り、アメリカ経由で大西洋を超えて欧州にたどり着くことが計画されました。

ソヴィエト政府も当初はこれに同意しており、ウラジオストクに国内のチェコ軍団を集結させることに協力的でした。しかし赤軍は彼らを武装解除しようとしたため、チェコ軍団はそれに応じようとしなかったため、チェコ軍団は反乱軍とみなされ赤軍による攻撃を受けることになりました。

チェコ軍団は赤軍による攻撃を受けながらも、シベリアの各都市を占領しながら東へ進みましたがウラジオストク集結は遅々として進まず、これに対して日本・アメリカ・イギリス・フランスなどは、「ソヴィエト政権がチェコ軍団を抑留している」として、彼らの解放を口実にシベリア出兵に乗り出したのでした。

最終的に軍団の移送が始まったのは1920年になってからのことで、とっくに戦争は終わってしまっていました。

 

4. トルキスタン自治政府の樹立

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トルコ系民族によるイスラム国家の夢

革命後赤軍が中央アジアに侵攻し、白軍が支配していたタシュケントの暫定政権を崩壊させた後、ソヴィエトは「ウレマ・ジャミアティ」と呼ばれる地元の聖職者グループと接触。ソヴィエト連邦政府の樹立を提案しました。

しかし彼らはボリシェヴィキに対し不信感を持っており、自分たちはソヴィエトに参加するためのプロレタリア団体が存在しない、と主張してソヴィエトからの離脱を告知。

中央アジア各地のイスラム有力者たちと接触し、コーカンドで会談し54名の地域評議会から成るトルキスタンの新政府「トルキスタン自治政府」の樹立を宣言しました。

その領土は、現在のトルクメニスタン、タジキスタン、キルギス、ウズベキスタン、カザフスタン南部を含む広大な土地です。

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これに対し、ソヴィエト政府は直ちにトルキスタン政府に反対。軍事侵攻の準備を開始しました。トルキスタン政府は外国との連携を求めますが確保できず、コサックの指導者アタマン・ドトフ率いるドイツ軍捕虜の部隊とアルメニア兵により首都コーカンドは陥落。1週間あまりで町は大きく破壊され、1,4000人以上の人々が殺害されました。

 

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5. ネストル・マフノの「黒軍」

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ウクライナ農民が主体のアナキスト革命反乱軍

革命勃発後、最も混乱を極めたのがウクライナでした。

2月革命によりウクライナの首都キエフでは共産党のウクライナ人民政府が樹立されますが、赤軍による介入が始まり、これに対抗すべくウクライナはドイツ・オーストリアと同盟し主権を取り戻します。しかし第一次世界大戦でドイツ・オーストリアが敗北すると、赤軍の介入が始まりキエフは占領され、傀儡政権であるウクライナ社会主義ソヴィエト政府が樹立されました。

これに対し、ウクライナ人民政府軍、人民政府を支援するフランス軍・イギリス軍、ウクライナを拠点に反転攻勢を狙う白軍、火事場泥棒で領土拡充を狙うポーランド軍・ハンガリー軍・ルーマニア軍、その他盗賊や軍閥が割拠し大混乱状態に陥りました。

その中で最も成功したのが、アナキストのネストル・マフノが率いるウクライナ革命反乱軍。通称「黒軍」。

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Work by Hoodinski

マフノは戦闘の素人である農民を組織・訓練し、短期間の間に驚くべき軍事規律で効率的に戦闘を行う軍隊へ変貌させました。マフノ軍は「タカンカ」と呼ばれる馬車の移動式兵器を開発。広いウクライナの平原を素早く移動し運用を行いました。これは後にソヴィエト軍に模倣されることになります。

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マフノ軍は当初は赤軍と協力し、デニーキン将軍率いる白軍と人民政府軍を圧倒しウクライナの大部分の地から追い出してしまいました。

しかしその後赤軍はマフノ軍の排除に取り掛かり、マフノ軍が占領した町を直ちに占領。マフノ軍の一味を次々に逮捕していき、マフノをフランスに亡命させてしまいました。リーダーを失った黒軍はその後崩壊。ウクライナはソヴィエトの中に取り込まれることになったのでした。

 

 

6. 北極熊探検

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Photo by  Bolandera

あまり知られていないアメリカ軍のロシア北部侵攻 

ソヴィエト政府に対する大規模な諸外国軍の干渉といえばシベリア出兵が有名で、あまり知られていませんが北部ロシアからアメリカ軍がペテルブルグ攻略を目指して軍事侵攻を行ったことがあります。

1918年、ミシガンとウィスコンシン出身のアメリカ兵5000人が北部ロシアで抵抗を続ける白軍への「物資援助」を名目に軍事干渉しました。この遠征は一般的に「北極熊探検(Polar Bear Expedition)」という名で知られます。

当時ロシア北部ムルマンスク港は白軍の手にあり、そこを死守しながら白軍の物資を配分し南に進んで赤軍と戦い白軍によるベテルブルグ侵攻を支援する狙いがありました。

しかしムルマンスクはロシアの中でも北方に位置する厳寒の地。

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アメリカ兵はあまりの寒さにほとんど機能できず、「なぜ我々はこんな寒いところで戦っているのか」と士気も上がらず、遠征は見事に失敗に終わりました。白軍は確固撃破され、ムルマンスクはまもなく赤軍によって占領されました。

文字通りの「北極熊探検」で終わったのでした。

 

7. クロンシュタットの反乱

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不満水兵たちによる反ボリシェヴィキ反乱

 フィンランド湾のコトリン島にあるクロンシュタット港は、ピョートル1世によって開かれ歴史的にもロシア艦隊の最重要拠点でありました。

革命勃発後、クロンシュタットの水兵たちはボリシェヴィキに賛同し、革命のための戦闘にも参加していました。しかし、積極的な貢献にも関わらずボリシェヴィキ政府の対応は薄情で、安い給与、不平等な食料の分配、燃料不足に水兵たちは不満を募らせていました。さらには、ボリシェヴィキの兵たちによる虐待にも耐え粘らなかった。

そしてとうとう1921年、クロンシュタットの水兵たちは反乱を起こし、「ソヴィエト政府の非人道性」を訴え、国民選挙の実施、言論と議会の自由、政治犯の釈放、労働組合と農民組合を結成する自由、全ての人民の配給の平等化、軍事政権からの共産主義政治機関の撤廃、社会主義政党のための報道の自由などを含む「ペテロパブロフスク決議」を出しました。

しかしソヴィエト政府は直ちに赤軍部隊を投入し鎮圧にあたりました。2万人の赤軍兵が1万5000人の水兵に対して砲撃を行い、500名を殺害。赤軍側も4000名以上が負傷する激しい戦闘になりました。多くの水兵が投降しますが、約8000名もの水兵がフィンランドに亡命しました。

この事件にソヴィエト政府は衝撃を受け、新経済政策(ネップ)の導入が早まることになったのでした。

 

 

まとめ

ここで書いている以上に、ロシア革命は色んな事件・暴動・反乱・他国の干渉があり、いちいち体系立てるのが困難なほど色んなことが起こりまくっています。

それだけロシア革命が与えた当時の衝撃は凄まじく、その内側と外側からの衝撃に耐えてソ連は大国への歩みを進めていくので、「国家」というマクロ観点で見るとソ連めちゃ有能と言っていいんじゃないかと思います。

が、ミクロで見ると、体制維持のために多くの血が流れ苦しみが生まれているわけで、物事を見誤らないように、我々はその両面から歴史を見ていかないといけないんだろうと思います。

 

 

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参考サイト

"10 Notable Struggles Of The Russian Civil War" LISTVERSE

 

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